第13話「スラムの目」
足跡は、子供のものだった。
靴ではない。布を巻いただけの足。歩幅は小さいが、爪先に体重の乗った、忍び足に慣れた者の跡だ。倉庫の裏の泥に三歩分だけ残って、石畳で消えていた。
「ガキの盗みか。……携行食と外套ってのも、それなら得心がいくな」
ガロは腕を組んだ。怒っているというより、困った顔だった。
「ギルドに届けは出すが、まあ、出てこねえだろうな。西のスラムに持ち込まれたら、足はつかねえ」
「追える」
俺が言うと、ガロとミレアが同時にこっちを見た。
「泥の足跡は消えても、匂いは残る。うちの携行食には燻した猪肉が入ってる。あれは匂いが強い。それに外套三枚を抱えた子供の足なら、荷の重さで歩き方が変わる。……半日以内なら、辿れる」
「あんた、ほんとに猟師ね」とミレアが言った。褒めてはいなかった。
◇
西のスラムは、街の吹き溜まりだった。
崩れかけた長屋が肩を寄せ合い、路地は人ひとり分の幅しかない。大穴で稼げなくなった元冒険者、流れ者、親のない子供ら。ヴェルデの繁栄の、燃え殻が積もる場所だ。
入ってすぐに分かったのは、ここが「見られる」場所だということだった。
路地の奥、窓の破れ布の裏、屋根の上。あちこちから視線が刺さる。敵意というより、値踏みだ。よそ者が何を持っていて、何をしに来て、どれだけ剥ぎ取れるか。俺たちが冒険者の装備だと分かると、視線の半分は潮が引くように消えた。残りの半分は、より慎重になっただけだった。
「気ぃつけろよ」とガロが小声で言った。「ここじゃ、衛兵も昼間しか入ってこねえ。もめ事は起こすな。起こしたら、十倍になって返ってくる」
道端では、老婆が欠けた鍋で何かの根を煮ていた。壁際には、俺と同じ歳ごろの男が三人、昼間から座り込んで、濁った目で往来を見ている。手の指の潰れ方で、元は坑夫か冒険者だと分かった。大穴は毎日、素材と一緒に、こういう燃え殻も地上へ吐き出している。
ニラの言葉を、ふと思い出した。帰ってこない人の依頼書は、最後はぜんぶ私たちのところに戻ってくる――戻る場所すらない者たちは、たぶん、ここへ流れ着くのだ。
匂いの糸は、生きていた。
燻し肉の匂いの残り香を、路地の角、雨樋の下、と拾っていく。スラムの匂いは濃い。煮炊きと、泥と、すっぱい香りがする藁。その中で燻した猪肉は、糸のように細いが、確かに一本、奥へ続いていた。
途中からは足跡もまた現れた。俺たちが近づいていることに、向こうも気づいたらしい。跡が急に乱れ、屋根へ逃げた形跡に変わる。
「屋根に上がった。俺が追う。ガロは表通りを回って、南の出口を塞いでくれ」
追跡は、思いのほか、しぶとい勝負になった。
相手は屋根の上を、猫のように走った。瓦の緩んだ場所、板の腐った場所を全部知っていて、俺が知らずに踏めば落ちる箇所へ、正確に誘い込んでくる。二度、踏み抜きかけた。地の利は完全に向こうにある。
――だが、山の斜面よりはましだ。
俺は追うのをやめ、先を読むことにした。逃げる獲物は、追われている間、道を選べない。習い性の道筋に入る。こいつの逃げ方には癖があった。必ず、日陰の側へ折れる。体が細く、日向では影が伸びて目立つのを知っているからだ。
なら、次の日陰は――あの水路の上。
俺は屋根を捨てて路地へ降り、水路へ先回りした。
半瞬遅れて、小さな影が水路の上の梁に飛び移ってくる。着地の瞬間、俺は梁の端を蹴った。梁が揺れ、影の体勢が崩れる。落ちてきたそれを、俺は下で受け止めた。
「〜〜っ、放せ! 放せよ!」
腕の中で暴れたのは、十六、七の少年だった。痩せて、目つきだけが刃物みたいに鋭い。腰の袋から、燻し肉の匂いがした。
「放したら逃げるだろ」
「当ったり前だ!」
少年は噛みつき、肘を入れ、指の関節を極めようとまでしてきた。喧嘩慣れしている。だが、力も体重も足りていない。俺は暴れるだけ暴れさせてから、両腕ごと縛り上げた。
「……くそ。なんで先回りできんだよ。屋根の上じゃ、大人に負けたことねえのに」
「おまえの逃げ方には癖がある。日陰を選びすぎだ」
「…………」
少年は、悔しさより先に、驚いた顔で俺を見た。自分の癖を言い当てられたのが、よほど心外だったらしい。
◇
表通りで合流したガロは、縛られた少年と、取り返した外套を見比べて、まず倉庫の話をした。
「錠前、どうやって開けた。あれは新品だぞ」
「……針金二本。あんなの錠前のうちに入らねえよ」
「ほう。見張りの倉庫番は」
「二人いた。交代の間が三十数える分だけ空く。それと、東の窓の格子が一本、錆びて回る」
ガロは口笛を吹いた。
「よく見てやがる。……で? 外套と飯だけ盗んだのは、なんでだ。倉庫にはもっと金目のもんがあったろ」
「武器は売るとき足がつく。飯と布は、つかねえ」
少年は、ふてくされたまま即答した。それから、ぼそりと付け足した。
「……それに、飯と布がねえと、死ぬ季節が来る」
誰が、とは言わなかった。だが袋の中身がそれを言っていた。携行食は封も切られず、外套は三枚とも、少年には大きすぎる寸法のまま丸められていた。自分のためではないのだ。
ガロは長いことその袋を見ていた。それから、少年の縄をあっさり解いた。
「おい」とミレアが咎める。
「まず飯だ」とガロは言った。「話ってのは、腹の減った奴と満ちた奴でやると、必ず満ちた方の理屈が勝っちまう。それじゃ話にならねえ」
大男は、ぽかんとしている少年の首根っこを掴んで、屋台の並ぶ通りへ歩き出した。
「名前は」
「……コッツ」
「コッツ。おまえ、串は何本いける」
「…………五本」
「食え。倍だ、十本」
少年は警戒しきった目のまま、それでも差し出された串に、我慢しきれずかぶりついた。一本目を食う速さで、この数日の腹の中身が知れた。
俺は少し離れて、その様子を見ていた。
三十数える交代の間隙。錆びて回る格子。俺の逃げ道の先読みを掻い潜りかけた脚。――腕は、本物だ。だが、ガロの言う「性根」の見立ては、まだこれからだった。
「……なあ、リゲル」
隣でミレアが、小声で言った。
「あの子、串を二本、袖に隠したわよ。食べずに」
「ああ。見えてた」
「注意しないの」
「持って帰る相手がいるんだろ。……それも性根のうちだ」
第13話更新です!
現場作業あつすぎますね汗




