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あすかの幸せについて  作者: こうた
第9章 名前のない関係

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第7話 存在の認識

人は「いる」と分かっていても、


それを実感する瞬間は限られている。



---


視界に入ることと、


存在として認識することは違う。



---


十二月中旬。



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夜はさらに深くなっていた。



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空気は冷たく、


街の光だけが少し柔らかい。



---


「人生の交差点」。



---


カラン。



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扉が開く。



---


あすかは顔を上げる。



---


朝比奈だった。



---


「こんばんは」



---


「こんばんは」



---


短い挨拶。



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それだけで成立する関係。



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朝比奈は席に座る。



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グラスが置かれる。



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マスターは何も言わない。



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いつもの夜が始まる。



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しかしこの夜は、


少しだけ違っていた。



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あすかは気づく。



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朝比奈を見るとき、


以前より“見ている時間”が長い。



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理由はない。



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ただ自然にそうなっている。



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朝比奈は本を開いている。



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ページをめくる音が小さく響く。



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その姿は、


店の一部のようでもあり、


一人の人間のようでもある。



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あすかは思う。



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この人は、


ただここにいる人ではない。



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「ここにいることが自然な人」になっている。



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その違いは大きい。



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しかし言葉にはならない。



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しばらくして朝比奈が言う。



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「この時間、落ち着きますね」



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あすかは少し考える。



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「ここにいる時間、ですか」



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朝比奈はうなずく。



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「そうかもしれません」



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それだけ。



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深い説明はない。



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だがそれで十分だった。



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あすかは気づく。



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この関係は、


説明を必要としていない。



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成立しているが、


定義されていない。



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それでも崩れない。



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むしろ、


定義がないことで安定している。



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不思議な構造だった。



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やがてマスターがグラスを拭きながら言う。



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「最初の頃より、ずっと自然だね」



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あすかは少しだけ驚く。



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朝比奈も視線を上げる。



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マスターは続けない。



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それ以上は説明しない。



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ただ事実として置くだけ。



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あすかはそれを否定できなかった。



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確かにそうだった。



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最初は“他人”だった。



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今は違う。



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他人ではないが、


特別とも言い切れない。



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その中間にいる。



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朝比奈がグラスを置く。



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音が小さく響く。



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その音が、


なぜかはっきりと残る。



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やがて時間が流れる。



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朝比奈が立ち上がる。



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「そろそろ帰ります」



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あすかは答える。



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「お疲れさまです」



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自然なやり取り。



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朝比奈は軽く会釈する。



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扉へ向かう。



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カラン。



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扉が閉まる。



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静寂。



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しかしその静寂の中で、


あすかは気づく。



---


“存在していること”は、


もう疑う必要がないのだと。



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朝比奈は、


ここにいる人ではなくなっている。



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ここにいることが前提の人になっている。



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その変化は静かすぎて、


気づくのが遅れる。



---


しかし確かに、


何かが変わっていた。



---


あすかはグラスを見つめる。



---


まだ名前はない。



---


それでもこの関係は、


すでに成立している。



---


それが少しだけ、


怖くもあり、


落ち着きでもあった。



---


(第9章 第8話へ続く)

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