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あすかの幸せについて  作者: こうた
第9章 名前のない関係

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第6話 過去の影(軽い揺れ)

人は前を向いているつもりでも、


ふとした瞬間に過去が横切る。



---


それは戻るためではない。



---


確認するためでもない。



---


ただ「そこにあった」という事実として、


静かに現れる。



---


十二月中旬。



---


冬の夜は深くなり、


街の音は少しずつ減っていた。



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「人生の交差点」。



---


あすかはいつもの席に座る。



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グラスを手に取る。



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もうこの動作には迷いがない。



---


習慣になっている。



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しばらくして。



---


カラン。



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扉が開く。



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朝比奈だった。



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「こんばんは」



---


「こんばんは」



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短い挨拶。



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それだけで空気が整う。



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朝比奈は席に座る。



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グラスが置かれる。



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静かな時間。



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その夜は、少しだけ違っていた。



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あすかの視線が一瞬だけ止まる。



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朝比奈の手元。



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本ではない。



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古いノートのようなものだった。



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何気ない。



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ただそれだけ。



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しかしなぜか、


少しだけ意識が引っかかる。



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朝比奈はそれに気づかない。



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あるいは気づいていても、


何も言わない。



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あすかもすぐに視線を戻す。



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何も聞かない。



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聞く必要はない。



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ただ、


その小さな違和感だけが残る。



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やがて朝比奈が言う。



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「最近、仕事が少し変わりまして」



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あすかは顔を上げる。



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「そうなんですか」



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「はい。環境が少し」



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そこで止まる。



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続きは言わない。



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あすかもそれ以上は聞かない。



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その沈黙は以前なら重かったかもしれない。



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今は違う。



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情報が少なくても関係は揺れない。



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ただ存在している。



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それだけで成立している。



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しかしそのとき。



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あすかの中に、


わずかな引っかかりが生まれる。



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「変わる」という言葉。



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それはいつも、


何かの終わりと隣り合わせだ。



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悠真のときもそうだった。



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変化は静かに始まり、


気づいたときには戻れなくなっていた。



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その記憶が、


一瞬だけよぎる。



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だが感情は揺れない。



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痛みではない。



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ただの確認だった。



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朝比奈はグラスを持つ。



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その仕草は変わらない。



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ここにいる人は、


今も目の前にいる。



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それが事実だった。



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やがてあすかは気づく。



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過去はもう「比較対象」ではない。



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ただの記録になっている。



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朝比奈とは違う時間軸にあるもの。



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マスターは何も言わない。



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ただ静かにグラスを拭いている。



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この店は、


過去も現在も混ざらない場所なのかもしれない。



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やがて朝比奈が言う。



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「そろそろ帰ります」



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あすかは答える。



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「お疲れさまです」



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自然な言葉。



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朝比奈は軽く会釈する。



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扉へ向かう。



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カラン。



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扉が閉まる。



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静寂。



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あすかはグラスを見つめる。



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過去の影は、


もう痛みではなかった。



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ただの影だった。



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そしてその影は、


今の関係を壊さない。



---


むしろ、


今がちゃんと成立していることを確認させる。



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あすかは小さく息を吐く。



---


この関係はまだ名前を持たない。



---


それでも確かに、


今ここにある。



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(第9章 第7話へ続く)

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