第6話 過去の影(軽い揺れ)
人は前を向いているつもりでも、
ふとした瞬間に過去が横切る。
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それは戻るためではない。
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確認するためでもない。
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ただ「そこにあった」という事実として、
静かに現れる。
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十二月中旬。
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冬の夜は深くなり、
街の音は少しずつ減っていた。
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「人生の交差点」。
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あすかはいつもの席に座る。
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グラスを手に取る。
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もうこの動作には迷いがない。
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習慣になっている。
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しばらくして。
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カラン。
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扉が開く。
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朝比奈だった。
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「こんばんは」
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「こんばんは」
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短い挨拶。
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それだけで空気が整う。
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朝比奈は席に座る。
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グラスが置かれる。
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静かな時間。
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その夜は、少しだけ違っていた。
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あすかの視線が一瞬だけ止まる。
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朝比奈の手元。
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本ではない。
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古いノートのようなものだった。
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何気ない。
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ただそれだけ。
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しかしなぜか、
少しだけ意識が引っかかる。
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朝比奈はそれに気づかない。
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あるいは気づいていても、
何も言わない。
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あすかもすぐに視線を戻す。
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何も聞かない。
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聞く必要はない。
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ただ、
その小さな違和感だけが残る。
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やがて朝比奈が言う。
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「最近、仕事が少し変わりまして」
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あすかは顔を上げる。
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「そうなんですか」
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「はい。環境が少し」
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そこで止まる。
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続きは言わない。
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あすかもそれ以上は聞かない。
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その沈黙は以前なら重かったかもしれない。
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今は違う。
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情報が少なくても関係は揺れない。
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ただ存在している。
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それだけで成立している。
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しかしそのとき。
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あすかの中に、
わずかな引っかかりが生まれる。
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「変わる」という言葉。
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それはいつも、
何かの終わりと隣り合わせだ。
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悠真のときもそうだった。
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変化は静かに始まり、
気づいたときには戻れなくなっていた。
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その記憶が、
一瞬だけよぎる。
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だが感情は揺れない。
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痛みではない。
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ただの確認だった。
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朝比奈はグラスを持つ。
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その仕草は変わらない。
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ここにいる人は、
今も目の前にいる。
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それが事実だった。
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やがてあすかは気づく。
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過去はもう「比較対象」ではない。
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ただの記録になっている。
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朝比奈とは違う時間軸にあるもの。
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マスターは何も言わない。
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ただ静かにグラスを拭いている。
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この店は、
過去も現在も混ざらない場所なのかもしれない。
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やがて朝比奈が言う。
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「そろそろ帰ります」
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あすかは答える。
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「お疲れさまです」
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自然な言葉。
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朝比奈は軽く会釈する。
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扉へ向かう。
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カラン。
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扉が閉まる。
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静寂。
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あすかはグラスを見つめる。
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過去の影は、
もう痛みではなかった。
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ただの影だった。
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そしてその影は、
今の関係を壊さない。
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むしろ、
今がちゃんと成立していることを確認させる。
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あすかは小さく息を吐く。
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この関係はまだ名前を持たない。
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それでも確かに、
今ここにある。
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(第9章 第7話へ続く)




