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あすかの幸せについて  作者: こうた
第9章 名前のない関係

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第1話 外側の習慣化

関係は、ある日突然変わるものではない。



---


気づかないうちに、


少しずつ形を変えていく。



---


それが「習慣」と呼ばれる段階を越えたとき、


人は初めて変化に気づく。



---


十二月の初め。



---


冬の気配は完全に街へ降りていた。



---


朝の空気は冷たく、


夜は早く訪れる。



---


あすかは仕事を終え、


駅の改札を抜けた。



---


以前ならそのまま家へ向かっていた。



---


しかし最近は少し違う。



---


足が自然と別の方向へ向く。



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理由を考えることもなくなっていた。



---


「人生の交差点」



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その灯りはもう、特別な場所ではない。



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日常の一部になっていた。



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カラン。



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扉を開く。



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「こんばんは」



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マスターが顔を上げる。



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「こんばんは」



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あすかは席に座る。



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グラスが置かれる。



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いつもの流れ。



---


しかし、その“いつもの”が少し変わっていることに、


本人はまだはっきりとは気づいていない。



---


カラン。



---


扉が開く。



---


あすかは反射的に顔を上げる。



---


もう驚きではない。



---


確認に近い動作だった。



---


朝比奈だった。



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「こんばんは」



---


「こんばんは」



---


短い挨拶。



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それだけで十分だった。



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朝比奈は席に座る。



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マスターがグラスを置く。



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静かな時間が始まる。



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以前と同じ風景。



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しかし、決定的に違うことが一つある。



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“偶然”の回数が減っていることだった。



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あすかはそれにまだ言葉を与えていない。



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ただ、


そういうものだと思い始めている。



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朝比奈が本を開く。



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あすかも本を開く。



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同じ空間。



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同じ沈黙。



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以前なら、この沈黙は「何もない時間」だった。



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今は違う。



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「共有されている時間」になっている。



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しばらくして朝比奈が言う。



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「最近、仕事は落ち着いてきました」



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あすかは顔を上げる。



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「そうなんですか」



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「少しだけですけど」



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それだけの会話。



---


以前ならここで終わっていた。



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しかし今日は少し違った。



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あすかは自然に聞いていた。



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「忙しかったんですか」



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朝比奈は少しだけ考える。



---


「忙しいというより」



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言葉を探すように続ける。



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「余裕がなかった時期がありました」



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あすかは、その言葉に少しだけ反応する。



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余裕がない。



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最近よく聞く言葉だった。



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どこかで。



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誰かから。



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あるいは自分の中で。



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「今は違うんですか」



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気づけばそう聞いていた。



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朝比奈は少し驚いたように見えた。



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しかしすぐにうなずく。



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「今は、少し違います」



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短い答え。



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だがそれ以上は求めない。



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それが自然だった。



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沈黙が戻る。



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しかし重くない。



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むしろ心地よい。



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マスターはいつも通りグラスを拭いている。



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何も言わない。



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ただ見守っているようだった。



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あすかはグラスを見つめる。



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気づけば、


朝比奈が来ることが「前提」になっている。



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来るかどうかを考えない。



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来ない可能性も想像しない。



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ただ、


来るものとして夜が始まっている。



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それは少し奇妙だった。



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けれど不快ではない。



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むしろ安定している。



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やがて朝比奈が本を閉じる。



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あすかもそれを見て、


自分の本を閉じる。



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同じタイミングだった。



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偶然ではない気がした。



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しかし理由は分からない。



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朝比奈が言う。



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「そろそろ帰ります」



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あすかは少しだけ間を置く。



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そして言う。



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「お疲れさまです」



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その言葉は以前より自然だった。



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朝比奈は軽く会釈する。



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「ありがとうございます」



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扉へ向かう。



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カラン。



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扉が閉まる。



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静寂が戻る。



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しかしそれは、


かつての「終わりの静けさ」ではなかった。



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むしろ、


続いていることを前提とした静けさだった。



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あすかはグラスを見つめる。



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外側の世界は何も変わっていない。



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店も。



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街も。



---


時間も。



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しかし自分の中だけが、


少しずつ違う形をしている。



---


名前はまだない。



---


意味もまだない。



---


それでも確かに、


関係はそこに存在している。



---


あすかは小さく息を吐いた。



---


そしてその事実を、


まだ言葉にしないまま受け入れていた。



---


(第9章 第2話へ続く)

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