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あすかの幸せについて  作者: こうた
第8章 静かな再生

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第10話 秋の入口

季節の変わり目は、境界が曖昧だ。



---


ある日を境に変わるのではなく、


気づいたときにはもう変わっている。



---


十一月末。



---


冬の気配がはっきりと街に現れていた。



---


夜は冷たく、


風は乾いている。



---


あすかは仕事を終え、


いつもの道を歩く。



---


もう「人生の交差点」に向かう足取りは、


迷いではなく習慣だった。



---


扉の前に立つ。



---


少しだけ立ち止まる。



---


その理由は分からない。



---


しかし以前のような不安ではない。



---


ただの“間”だった。



---


カラン。



---


扉を開く。



---


「こんばんは」



---


マスターが穏やかに言う。



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「こんばんは」



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あすかは席に座る。



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グラスが置かれる。



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静かな夜。



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しかし今日は、


最初から何かが違っていた。



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それは緊張ではない。



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期待でもない。



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ただ、


空気が少しだけ澄んでいる。



---


カラン。



---


扉が開く。



---


あすかは顔を上げる。



---


朝比奈だった。



---


「こんばんは」



---


「こんばんは」



---


いつもの挨拶。



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だが今日は、


その一言で終わらなかった。



---


朝比奈は席につく前に、


一瞬だけあすかを見た。



---


そして言った。



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「今日は少し寒いですね」



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あすかは少しだけ間を置く。



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「そうですね」



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それだけの会話。



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しかしその短さが、


逆に意味を持っていた。



---


以前なら気づかなかったかもしれない。



---


ただの天気の話。



---


ただの習慣的な言葉。



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けれど今は違う。



---


このやり取りには、


“続いている関係”の気配がある。



---


あすかは気づく。



---


この人と話す時間は、


もう「偶然」ではない。



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毎回積み重なっている。



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記憶として。



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感覚として。



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関係として。



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朝比奈はグラスを持つ。



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マスターは何も言わない。



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いつも通りの店。



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いつも通りの夜。



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それでも、


あすかの中では少しだけ違う。



---


この時間が終わってほしくないと、


ほんの少しだけ思っている。



---


その感情に驚く。



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大きなものではない。



---


強いものでもない。



---


ただ小さな“残ってほしい”という感覚。



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それは以前にはなかった。



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朝比奈がふと口を開く。



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「この店、落ち着きますね」



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あすかは少し驚く。



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そして答える。



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「私もそう思います」



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沈黙。



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しかし今度の沈黙は、


もう空白ではなかった。



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共有されている時間だった。



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しばらくして朝比奈が言う。



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「また来ます」



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あすかは自然に答える。



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「はい」



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それだけ。



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それだけなのに、


その言葉は少しだけ重みを持っていた。



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扉が開く。



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カラン。



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朝比奈が出ていく。



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店内に静けさが戻る。



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しかしそれは、


以前の静けさとは違っていた。



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孤独ではない。



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停止でもない。



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続きのある静けさだった。



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あすかはグラスを見つめる。



---


秋の入口。



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それは季節だけの話ではない。



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自分の中にも、


同じような“入口”がある気がした。



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まだ名前はない。



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まだ形もない。



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けれど確かに、


何かが始まりかけている。



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それが何なのかは分からない。



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ただ一つだけ分かる。



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もう後戻りするものではないということ。



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あすかは小さく息を吐く。



---


そしてグラスを持ち上げた。



---


静かな夜が続いている。



---


けれどその夜はもう、


以前と同じではなかった。



---


(第8章 完)

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