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あすかの幸せについて  作者: こうた
第8章 静かな再生

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第5話 名前

人との距離は、名前によって変わる。



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知らない人。



---


あの人。



---


常連さん。



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そして名前。



---


たったそれだけの違いなのに、


世界は少しだけ形を変える。



---


十月中旬。



---


秋は街に定着していた。



---


風は涼しく、


夜は静かだった。



---


あすかは仕事を終え、


いつものように「人生の交差点」へ向かう。



---


もう迷いはない。



---


以前のように、


どこへ行けばいいのか分からない夜は減っていた。



---


店の灯りが見える。



---


扉を開く。



---


カラン。



---


「こんばんは」



---


マスターが顔を上げる。



---


「こんばんは」



---


あすかは席につく。



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グラスが置かれる。



---


静かな時間が始まる。



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少しして。



---


カラン。



---


扉が開く。



---


反射的に視線が向く。



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そして自分でも気づく。



---


今、自分は誰が来たのか確認した。



---


以前ならそんなことはなかった。



---


朝比奈だった。



---


いつものように会釈する。



---


「こんばんは」



---


「こんばんは」



---


短い言葉。



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しかし今では自然なやり取りになっている。



---


朝比奈は席につく。



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マスターがグラスを置く。



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静かな時間。



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以前と同じ。



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それなのに。



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どこか違う。



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あすかは本を読んでいた。



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ページをめくる。



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ふと視線を上げる。



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朝比奈も本を読んでいた。



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珍しい。



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少なくとも見たことはなかった。



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気づけば言葉が出ていた。



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「本、読むんですね」



---


朝比奈は顔を上げる。



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少しだけ驚いたようだった。



---


「たまに」



---


短い返事。



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だが会話は終わらない。



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「どんな本ですか」



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「歴史の本です」



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「好きなんですか」



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「好きというより、落ち着くんです」



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あすかは少し考える。



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その感覚は分かる気がした。



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面白いから読むのではない。



---


落ち着くから読む。



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そういうものもある。



---


沈黙。



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だが今は心地よい。



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マスターが静かに笑っている。



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何かを見守るように。



---


やがて朝比奈が本を閉じる。



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栞を挟む。



---


その仕草を見ながら、


あすかはふと思った。



---


ずっと「朝比奈」という名前を知っている。



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しかし自分は一度も呼んでいない。



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会話の必要がなかったから。



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呼ぶ理由もなかったから。



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だが今日は違った。



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言葉が自然に出る。



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「朝比奈さんは、よく読むんですか」



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言った瞬間。



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ほんの少しだけ空気が変わった。



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大きな変化ではない。



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誰も驚かない。



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誰も反応しない。



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けれど。



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確かに変わった。



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朝比奈は少しだけ目を丸くする。



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そして小さく笑った。



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初めて見る笑顔だった。



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「そうですね」



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静かな声。



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「昔から本は好きです」



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それだけ。



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それだけなのに、


なぜか印象に残った。



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを磨いている。



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だが口元だけが少し緩んでいた。



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あすかはグラスを見つめる。



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名前。



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たったそれだけ。



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しかし、


名前で呼んだ瞬間。



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朝比奈は「いつもいる人」から、


少しだけ輪郭を持った存在になった。



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知らない誰かではない。



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背景でもない。



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ただそこにいる人でもない。



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朝比奈。



---


一人の人間。



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その事実が静かに定着していく。



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外では秋風が吹いていた。



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季節は少しずつ深まっている。



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そしてあすかの世界も、


ほんの少しだけ形を変えていた。



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それは恋ではない。



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まだ。



---


けれど。



---


確実に名前を持った関係への、


最初の一歩だった。



---


(第8章 第6話「外の景色」へ続く)

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