第3話 夏の終わり
季節は、ある日突然変わるわけではない。
---
気づけば蝉の声が減り、
気づけば夜風が冷たくなり、
気づけば空の高さが変わっている。
---
終わった瞬間は分からない。
---
けれど振り返ると、
確かに終わっていたと分かる。
---
九月最後の週。
---
朝の空気は少し冷たい。
---
あすかは駅へ向かう道を歩きながら、
空を見上げた。
---
雲が高い。
---
夏の空ではなかった。
---
いつの間にか季節は進んでいる。
---
自分が気づかないうちに。
---
そのことが少しだけ可笑しかった。
---
仕事は相変わらずだった。
---
忙しい日もある。
---
何も起きない日もある。
---
それでも以前と違うのは、
一日の終わりが少しだけ早く感じることだった。
---
時間が流れている。
---
そんな感覚が戻ってきていた。
---
以前は違った。
---
悠真との関係が曖昧になっていた頃。
---
一日は長かった。
---
返事を待つ時間。
---
会えない時間。
---
考えても答えの出ない時間。
---
時計ばかり見ていた気がする。
---
だが今は、
時計を見る回数が減った。
---
待っているものがないからだろうか。
---
それとも。
---
別の理由なのだろうか。
---
その答えはまだ分からない。
---
仕事帰り。
---
あすかはコンビニで温かいコーヒーを買った。
---
少し前なら考えなかった選択だった。
---
冷たい飲み物ばかり選んでいた夏。
---
もう終わったのだ。
---
カップから立ち上る湯気を見ながら歩く。
---
不思議と悪くない。
---
そのまま「人生の交差点」へ向かった。
---
カラン。
---
「こんばんは」
---
マスターが言う。
---
「こんばんは」
---
いつものやり取り。
---
席に座る。
---
グラスが置かれる。
---
店内にはまだ誰もいない。
---
静かな夜だった。
---
あすかは持っていた文庫本を開く。
---
数日前に買った本。
---
少しずつ読んでいる。
---
以前好きだった感覚を、
思い出すように。
---
ページをめくる。
---
文章を追う。
---
物語に入り込む。
---
そんな時間が、久しぶりだった。
---
カラン。
---
扉が開く。
---
あすかは顔を上げる。
---
朝比奈だった。
---
そして自分が自然に顔を上げたことに気づく。
---
意識したわけではない。
---
ただ反応した。
---
朝比奈は軽く会釈する。
---
「こんばんは」
---
「こんばんは」
---
あすかも返す。
---
それだけ。
---
しかし以前より言葉が自然だった。
---
朝比奈は席につく。
---
マスターがグラスを置く。
---
静かな時間が始まる。
---
しばらくして朝比奈が本に気づいた。
---
「読書ですか」
---
短い言葉。
---
あすかは本を閉じる。
---
「はい」
---
「面白いですか」
---
少し考える。
---
「まだ途中ですけど」
---
それだけ答える。
---
朝比奈は小さくうなずく。
---
「途中の本っていいですよね」
---
あすかは少し首を傾げる。
---
「そうですか?」
---
「結末がまだ分からないので」
---
朝比奈は静かに言った。
---
「終わった話より好きです」
---
その言葉に、
あすかは少しだけ考え込む。
---
終わった話。
---
その言葉が胸のどこかに触れる。
---
けれど痛みはない。
---
ただ静かな波紋だけが広がる。
---
悠真とのことを思い出した。
---
思い出したが、
以前ほど重くはない。
---
悲しみではない。
---
怒りでもない。
---
ただ過去だった。
---
それが少し不思議だった。
---
いつからだろう。
---
悠真を思い出しても、
苦しくなくなったのは。
---
朝比奈はグラスを持つ。
---
マスターは何も言わない。
---
店内には穏やかな沈黙だけが流れる。
---
あすかは窓の外を見る。
---
街路樹が風に揺れている。
---
夏は終わった。
---
たぶん、もう完全に。
---
そして。
---
自分の中でも、
何かが終わっているのかもしれない。
---
終わったからこそ、
少しずつ新しいものが入ってくる。
---
本を読むこと。
---
季節を感じること。
---
誰かと短い会話をすること。
---
そんな当たり前のことが、
少しずつ戻ってきている。
---
夜は静かに更けていく。
---
そしてあすかは、
ようやく前を向き始めていた。
---
(第8章 第4話「再会」へ続く)




