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あすかの幸せについて  作者: こうた
第8章 静かな再生

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第1話 空席

人は、失って初めて気づくことがある。



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だがそれは、愛していたものだけとは限らない。



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ただそこにあると思っていたもの。



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変わらず続くと思っていたもの。



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そういうものが、ふと消えた時に初めて認識されることもある。



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九月下旬。



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夏は終わりかけていた。



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昼間にはまだ暑さが残る。



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しかし夜になると、少しだけ風が変わる。



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あすかは仕事を終え、


いつものように歩いていた。



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特に急ぐ理由はない。



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寄り道する理由もない。



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ただ、いつもの道を歩く。



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そして、いつもの場所へ向かう。



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「人生の交差点」



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小さな灯りが見える。



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あすかは扉を開けた。



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カラン。



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マスターが顔を上げる。



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「こんばんは」



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「こんばんは」



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いつも通り。



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何も変わらない。



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あすかは席へ向かう。



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いつもの席。



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グラスが置かれる。



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マスターは何も聞かない。



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あすかも何も話さない。



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それがこの店だった。



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静かな時間が流れる。



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グラスを持ち上げる。



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窓の外を見る。



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車のライト。



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歩いていく人影。



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遠くの信号。



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いつもと同じ夜。



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そのはずだった。



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ふと。



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視線が動く。



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店の入口を見る。



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理由はない。



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ただ見ただけだった。



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そして気づく。



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誰も来ない。



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あすかは時計を見る。



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夜九時過ぎ。



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朝比奈が来ることの多い時間だった。



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別に約束しているわけではない。



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来る日もあれば来ない日もある。



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そんな関係だ。



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だから気にする必要はない。



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あすかはグラスを口に運ぶ。



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数分が過ぎる。



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再び入口を見る。



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扉は閉じたまま。



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その時、自分の行動に気づいた。



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見ている。



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待っているわけではない。



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しかし確認している。



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その事実が少しだけ不思議だった。



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マスターがグラスを拭いている。



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何も言わない。



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おそらく気づいている。



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だが聞かない。



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それもいつも通りだった。



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時間が流れる。



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十分。



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二十分。



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三十分。



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扉は開かない。



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あすかは窓の外を見る。



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秋の風が街路樹を揺らしている。



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夏の終わり。



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そんな言葉が頭をよぎる。



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不思議だった。



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以前なら。



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悠真が来ない夜は、


もっと重かった。



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連絡がないこと。



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返事がないこと。



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会えないこと。



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その一つ一つに意味を探していた。



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だが今は違う。



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朝比奈が来ない。



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それだけ。



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不安ではない。



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悲しくもない。



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けれど。



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少しだけ気になる。



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それが何なのか分からない。



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心配なのか。



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習慣なのか。



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あるいは別の何かなのか。



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答えは出ない。



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マスターがふと口を開く。



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「今日は来ないみたいだね」



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あすかは少しだけ驚く。



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考えていたことを見透かされたような気がした。



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「そうですね」



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それだけ答える。



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マスターはうなずく。



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「そういう日もある」



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短い言葉。



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だが妙に納得できた。



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そういう日もある。



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ただそれだけだ。



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特別な意味はいらない。



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あすかはもう一度グラスを持ち上げる。



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静かな店内。



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静かな夜。



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そして、一つだけ空いている席。



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朝比奈がいつも座る場所。



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そこには誰もいなかった。



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あすかはその席を見る。



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ほんの数秒だけ。



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そして視線を戻した。



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気づいてしまった。



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朝比奈という人間が、


自分の日常の中に存在していたことを。



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大きな存在ではない。



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特別な存在でもない。



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だが。



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いないと分かる程度には、


そこにいた。



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その事実だけが、


静かに胸の奥へ沈んでいく。



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夜は続いている。



---


秋も近づいている。



---


そしてあすかの中でも、


何かが少しずつ動き始めていた。



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まだ小さい。



---


名前もない。



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けれど確かに、


止まっていた何かが動き始めている。



---


(第8章 第2話「習慣」へ続く)

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