第1話 空席
人は、失って初めて気づくことがある。
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だがそれは、愛していたものだけとは限らない。
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ただそこにあると思っていたもの。
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変わらず続くと思っていたもの。
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そういうものが、ふと消えた時に初めて認識されることもある。
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九月下旬。
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夏は終わりかけていた。
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昼間にはまだ暑さが残る。
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しかし夜になると、少しだけ風が変わる。
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あすかは仕事を終え、
いつものように歩いていた。
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特に急ぐ理由はない。
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寄り道する理由もない。
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ただ、いつもの道を歩く。
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そして、いつもの場所へ向かう。
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「人生の交差点」
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小さな灯りが見える。
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あすかは扉を開けた。
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カラン。
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マスターが顔を上げる。
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「こんばんは」
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「こんばんは」
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いつも通り。
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何も変わらない。
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あすかは席へ向かう。
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いつもの席。
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グラスが置かれる。
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マスターは何も聞かない。
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あすかも何も話さない。
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それがこの店だった。
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静かな時間が流れる。
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グラスを持ち上げる。
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窓の外を見る。
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車のライト。
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歩いていく人影。
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遠くの信号。
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いつもと同じ夜。
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そのはずだった。
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ふと。
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視線が動く。
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店の入口を見る。
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理由はない。
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ただ見ただけだった。
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そして気づく。
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誰も来ない。
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あすかは時計を見る。
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夜九時過ぎ。
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朝比奈が来ることの多い時間だった。
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別に約束しているわけではない。
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来る日もあれば来ない日もある。
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そんな関係だ。
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だから気にする必要はない。
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あすかはグラスを口に運ぶ。
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数分が過ぎる。
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再び入口を見る。
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扉は閉じたまま。
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その時、自分の行動に気づいた。
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見ている。
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待っているわけではない。
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しかし確認している。
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その事実が少しだけ不思議だった。
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マスターがグラスを拭いている。
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何も言わない。
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おそらく気づいている。
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だが聞かない。
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それもいつも通りだった。
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時間が流れる。
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十分。
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二十分。
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三十分。
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扉は開かない。
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あすかは窓の外を見る。
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秋の風が街路樹を揺らしている。
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夏の終わり。
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そんな言葉が頭をよぎる。
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不思議だった。
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以前なら。
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悠真が来ない夜は、
もっと重かった。
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連絡がないこと。
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返事がないこと。
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会えないこと。
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その一つ一つに意味を探していた。
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だが今は違う。
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朝比奈が来ない。
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それだけ。
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不安ではない。
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悲しくもない。
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けれど。
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少しだけ気になる。
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それが何なのか分からない。
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心配なのか。
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習慣なのか。
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あるいは別の何かなのか。
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答えは出ない。
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マスターがふと口を開く。
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「今日は来ないみたいだね」
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あすかは少しだけ驚く。
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考えていたことを見透かされたような気がした。
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「そうですね」
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それだけ答える。
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マスターはうなずく。
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「そういう日もある」
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短い言葉。
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だが妙に納得できた。
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そういう日もある。
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ただそれだけだ。
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特別な意味はいらない。
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あすかはもう一度グラスを持ち上げる。
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静かな店内。
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静かな夜。
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そして、一つだけ空いている席。
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朝比奈がいつも座る場所。
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そこには誰もいなかった。
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あすかはその席を見る。
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ほんの数秒だけ。
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そして視線を戻した。
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気づいてしまった。
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朝比奈という人間が、
自分の日常の中に存在していたことを。
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大きな存在ではない。
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特別な存在でもない。
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だが。
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いないと分かる程度には、
そこにいた。
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その事実だけが、
静かに胸の奥へ沈んでいく。
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夜は続いている。
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秋も近づいている。
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そしてあすかの中でも、
何かが少しずつ動き始めていた。
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まだ小さい。
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名前もない。
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けれど確かに、
止まっていた何かが動き始めている。
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(第8章 第2話「習慣」へ続く)




