第4話 過去が終わる音
過去は、消えるのではなく「置き場所」を失う。
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あすかはそのことを、少し遅れて理解することになった。
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七月下旬。
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夏は完全に街を支配している。
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夜になっても空気は重く、熱が抜けない。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「今日は少し疲れてる顔だね」
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あすかは少しだけ間を置く。
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「暑さのせいかもしれません」
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それだけだった。
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席に座る。
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グラスが置かれる。
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今日は冷たさが強い。
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しかしそれは心地よさではなく、
“意識を保つための温度”だった。
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悠真は来ない。
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それはもう当たり前の事実として、空間に溶けている。
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連絡もない。
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その沈黙に、反応はない。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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その動作は、いつも通りで、変わらない。
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しばらくして扉が開く。
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カラン。
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朝比奈 恒一だった。
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彼は軽く会釈する。
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「こんばんは」
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あすかも返す。
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「こんばんは」
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今日はそれだけでは終わらなかった。
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朝比奈は一瞬だけ立ち止まり、
マスターに視線を向ける。
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「少しだけ聞いてもいいですか」
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マスターは軽くうなずく。
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「どうぞ」
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朝比奈は言う。
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「この店、昔からこういう感じなんですか」
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マスターは少しだけ考える。
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「昔は、もう少し人が多かったかな」
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それだけだった。
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あすかはその会話を静かに聞いている。
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しかし、その中に違和感はない。
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ただ、時間が少しだけ過去へ向いた気がした。
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朝比奈は小さくうなずく。
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「変わるものですね」
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その言葉に、あすかは一瞬だけ視線を上げる。
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変わるもの。
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その言葉が、少しだけ引っかかる。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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時間が流れる。
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朝比奈はいつも通り多くを話さない。
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あすかも同じだ。
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しかし今日は、ほんの少しだけ空気が違う。
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“誰かが過去に触れた後の空気”。
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やがて朝比奈は席を立つ。
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「失礼します」
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軽く会釈する。
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扉へ向かう。
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カラン。
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その音が、いつもより少しだけ長く響いた気がした。
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静けさが戻る。
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マスターがぽつりと言う。
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「さっきの話、どう思った?」
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あすかは少し考える。
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そして答える。
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「変わるのは、当たり前なんだと思います」
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マスターはうなずく。
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「そうだね」
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それだけだった。
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あすかはグラスを見る。
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過去は終わったわけではない。
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ただ、もう現在にはいない。
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その事実が、ゆっくりと形を持ち始めていた。
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悠真は、もうどこにもいない。
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そしてその空白に、
別の時間が入り始めている。
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あすかはまだそれを「始まり」とは呼ばない。
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ただ、“変化”として見ているだけだった。
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(第7章 第5話へ続く)




