第3話 すれ違う速度
人は同じ空間にいても、同じ時間を生きているとは限らない。
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あすかはその違いを、少しずつ理解し始めていた。
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七月中旬。
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夜の湿度はさらに増している。
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空気が重く、呼吸が少しだけ遅くなる。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「今日は少し遅いね」
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あすかは小さくうなずく。
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「少しだけ、考えごとをしていました」
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それだけだった。
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席に座る。
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グラスが置かれる。
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今日は少しだけ濃い味だった。
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その濃さは感情ではなく、
“温度の残り方”に近い。
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悠真は来ない。
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それはもう事実として固定されている。
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連絡もない。
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しかしあすかは、それを問題として扱っていない。
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ただの状態になっている。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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その動作は変わらない。
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しばらくして扉が開く。
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カラン。
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朝比奈 恒一だった。
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彼は軽く会釈する。
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「こんばんは」
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あすかも返す。
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「こんばんは」
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それ以上はない。
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しかし今日は、少しだけ違っていた。
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朝比奈はすぐには座らない。
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一瞬だけ店内を見渡す。
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そして、あすかの近くではなく、少し離れた席に座る。
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その距離が、妙に自然だった。
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マスターがグラスを置く。
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「今日はどうされます?」
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朝比奈は少し考える。
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「静かに飲めればいいです」
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それだけだった。
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あすかは視線を落とす。
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この人は、関係を作ろうとしていない。
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しかし拒絶もしていない。
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ただ“速度が違う”。
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その違いだけが、そこにある。
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時間が流れる。
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朝比奈はほとんど話さない。
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時々、グラスを見ているだけだ。
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あすかも同じように沈黙している。
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ただ、沈黙の種類は違う。
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あすかの沈黙は“過去の残り”。
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朝比奈の沈黙は“現在の選択”。
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その差が、微かに空間をずらしていた。
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やがて朝比奈がふと口を開く。
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「ここ、落ち着きますね」
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あすかは少し間を置く。
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「そう思う人は、多いと思います」
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それだけだった。
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会話は続かない。
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しかし不自然でもない。
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朝比奈は小さくうなずく。
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「無理に話さなくていい場所って、少ないので」
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その言葉に、あすかは少しだけ目線を上げる。
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だが何も返さない。
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返せる言葉がなかった。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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やがて朝比奈は席を立つ。
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「失礼します」
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軽く会釈する。
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あすかも軽く頭を下げる。
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カラン。
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扉が閉まる。
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静けさが戻る。
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しかし今日は、その静けさが少しだけ違っていた。
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“誰かがいた後の静けさ”。
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あすかはグラスを見つめる。
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悠真はいない。
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それはもう変わらない。
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そしてその空白の中に、
別の速度が混ざり始めている。
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まだ名前は関係ではない。
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ただの“すれ違い”だった。
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それでも確かに、
何かは動き始めていた。
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(第7章 第4話へ続く)




