第7話 その人の声を待っている
冬の朝は、世界の色を薄くする。
白でも灰色でもない、曖昧な空。
あすかは駅へ向かいながら、昨夜のことを思い出していた。
「帰りたくない夜はある」
マスターの言葉。
あの声は、不思議と後に残る。
強い言葉ではない。
説教でもない。
ただ静かに置かれるだけなのに、胸の奥へ沈んでいく。
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最近、仕事中にぼんやりする時間が増えた。
正確には、考える時間が増えた。
自分のこと。
これまでの人生。
これから先。
そんなことを考える人間ではなかったはずなのに。
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昼休み、社員食堂の窓際に座る。
周囲では笑い声が飛んでいる。
恋人の話。
上司の愚痴。
旅行の予定。
その輪の中に入れないわけではない。
でも最近、自分の言葉がどこか薄く感じる。
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「先輩、最近なんか変わりました?」
向かいに座った後輩が言った。
あすかは顔を上げる。
「そう?」
「前より、ぼーっとしてるというか」
失礼なのに、後輩は悪びれていない。
あすかは少し笑う。
「疲れてるだけかも」
「恋じゃないですか?」
軽い冗談。
けれど、その瞬間だけ心臓が妙に反応した。
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恋。
その単語に、自分の中が少し揺れたことに戸惑う。
誰かを好きになったわけじゃない。
まだ。
たぶん。
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夜。
仕事を終えたあと、あすかは駅前で少し立ち止まった。
今日はやめようかと思った。
毎日通うのは変だ。
依存みたいで嫌だ。
そんな考えが頭をよぎる。
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でも気づけば、足はいつもの道へ向かっていた。
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「人生の交差点」
その看板を見るだけで、少し息が抜ける。
あすかは小さく苦笑した。
もう、自分の中で特別な場所になり始めている。
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扉を開ける。
カラン。
その瞬間、マスターが顔を上げた。
「今日は少し遅かったね」
その言葉を聞いた瞬間、あすかは妙な安心を覚えた。
“待たれていた”わけではない。
でも、“気づかれていた”。
それだけで、人は少し救われる。
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席に座る。
今日は客が多かった。
二人組の男性。
一人で飲む年配の女性。
カップルらしき男女。
それぞれが違う時間を持っている。
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マスターは忙しそうに動きながらも、あすかの前にグラスを置く。
「今日は少し強め」
「あ、分かるんですね」
「顔見れば、なんとなく」
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一口飲む。
確かに少し強い。
喉の奥が熱くなる。
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「ここって、不思議ですよね」
あすかはぽつりと言う。
「何が?」
「静かなのに、寂しくない」
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マスターは少し考える。
「たぶん、みんな少しずつ孤独だからじゃないかな」
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その言葉に、あすかは店内を見渡す。
笑っている客もいる。
無言の客もいる。
でも確かに、どこか似た空気が流れている。
“完全に満たされている人”の空気ではない。
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「孤独って、消えるんですかね」
自然に口から出た。
マスターはすぐには答えない。
グラスを拭きながら、静かに言う。
「消そうとすると苦しくなる」
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「じゃあ、どうすればいいんですか」
「隣に誰かいるだけで、少し軽くなることはある」
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その答えに、あすかは視線を落とす。
隣に誰かいる。
たったそれだけ。
でも、それが一番難しい。
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昔、付き合っていた人がいた。
長くは続かなかった。
理由は単純だった。
あすかが、自分の弱さを見せられなかったから。
頼ることが怖かった。
嫌われるのが怖かった。
だから「大丈夫」を繰り返して、気づけば一人になっていた。
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「私、誰かに甘えるの苦手なんです」
気づけば言っていた。
マスターは少しだけ笑う。
「苦手そう」
「そんな分かりやすいですか」
「頑張る人ほど、そういう顔する」
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その言葉が、少し痛かった。
でも嫌ではなかった。
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店の空気がゆっくり流れていく。
客の笑い声。
氷の音。
低い音楽。
その全部が、外の世界より柔らかい。
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あすかはふと気づく。
自分は最近、この店へ来る理由を探さなくなっている。
ただ来たいから来る。
それだけになり始めている。
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そしてもう一つ。
店に入り、マスターの声を聞く瞬間を、少し待っている自分がいる。
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それに気づいた瞬間、胸の奥がわずかに熱くなった。
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恋なのかは分からない。
憧れなのか、安心なのかも分からない。
でも確かなのは、
“誰かの声を待つ夜”が、自分の人生に戻ってきたということだった。
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帰り際。
マスターが静かに言う。
「今日は少し顔が柔らかかった」
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あすかは驚く。
「そうでした?」
「うん。最初に来た頃より」
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外へ出る。
夜風は冷たい。
でも今日は、不思議と寒くなかった。
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誰かに変えられているわけじゃない。
ただ、少しずつほどけている。
そんな感覚があった。
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そしてその変化を、あすか自身がまだ一番信じられていなかった。




