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あすかの幸せについて  作者: こうた
第1章 温もりを得た冬

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第6話 閉店後の灯り

雨は次の日も残っていた。


空は薄暗く、朝なのか夕方なのか分からない色をしている。


あすかは会社へ向かう電車の窓に映る自分をぼんやり見ていた。


最近、自分の顔が少し変わった気がする。


劇的にではない。


ただ、何も考えていない顔をしていない時間が増えた。


それが良い変化なのかどうかは、まだ分からない。



---


仕事中、ふと昨夜の女性を思い出す。


十年付き合った相手。


「好きか分からなくなった」


その言葉。


あすかは考えてしまう。


人は、本当にそんなふうに終わるのだろうか。


積み重ねた時間が、ある日突然“分からない”に変わる。


それは怖かった。



---


同時に、少しだけ羨ましくもあった。


十年も誰かを好きでいられること。


誰かの人生に、それだけ深く入り込めること。


自分には、そういう関係がなかった。



---


夜。


雨は止んでいた。


濡れた道路が街灯を反射している。


あすかは無意識に、いつもの路地へ入っていた。



---


「人生の交差点」


最近、その名前を口に出さなくなった。


もう説明しなくても、自分の中に場所として定着している。



---


扉を開ける。


カラン。


今日は客が少なかった。


カウンターには男性が一人だけ。


マスターはグラスを磨いている。


「いらっしゃい」


その声を聞くだけで、肩の力が抜ける。



---


席に座る。


マスターは何も聞かずに酒を作り始める。


あすかはその様子を見ながら、ふと思った。


「マスターって、ずっとここにいるんですか」


「営業時間中はね」


「そうじゃなくて……人生ずっと、みたいな」


マスターは少しだけ笑った。


「難しい聞き方するね」



---


グラスが置かれる。


今日は透明に近い色だった。


「私は、昔から同じ場所にいられないタイプだったよ」


意外だった。


この店そのものみたいな人だと思っていたからだ。



---


「引っ越しも多かったし、仕事も転々としてた」


「じゃあ、なんでこの店を?」


マスターは少し考える。


「止まりたかったんだと思う」



---


その言葉は静かだった。


でも妙に重かった。



---


「人って、ずっと動いてると、自分がどこにいるのか分からなくなるから」


あすかはグラスを持つ手を止める。


その感覚は、少し分かる気がした。



---


毎日同じ生活をしているのに、自分がどこへ向かっているのか分からない。


それは止まっているようで、実は流され続けているだけなのかもしれない。



---


「でも、止まるのって怖くないですか」


あすかは聞く。


マスターはうなずく。


「怖いよ。止まると、自分の音が聞こえるから」



---


店の奥で、氷の音が鳴る。


静かな店内に、その音だけが響いた。



---


「だから人は、忙しくするんですかね」


「そういう人もいる」


「マスターは?」


「私は、もう逃げるの疲れたから」



---


その答えは、妙に人間らしかった。


マスターは何でも分かっている人ではない。


ただ、たくさん夜を越えてきた人なのだと、あすかは初めて感じた。



---


時間がゆっくり過ぎる。


客はいつの間にか帰っていた。


気づけば、店にはあすかだけが残っている。



---


「……閉店、近いですか」


時計を見ると、思ったより遅かった。


マスターは軽く肩をすくめる。


「もう少しでね」



---


あすかは少しだけ申し訳なくなる。


「すみません、長居して」


「別にいいよ。帰りたくない夜はある」


その言葉に、あすかは苦笑する。


「顔に出てました?」


「少し」



---


帰りたくない。


その感覚を認めるのは、少し怖かった。


帰る部屋はある。


生活もある。


でも、“戻りたい場所”とは少し違う。



---


「ここにいると、不思議なんです」


あすかはぽつりと言う。


「何が?」


「一人なのに、一人じゃない感じがする」



---


マスターは少しだけ目を細めた。


「それは、この店のいいところかもしれないね」



---


閉店の準備が始まる。


照明が少し落ちる。


その光景を見ながら、あすかは胸の奥に小さな寂しさを感じていた。


終わってほしくないと思っている自分がいる。



---


店を出る。


外の空気は冷たい。


けれど今日は、冷たさより静けさのほうが強かった。



---


振り返る。


「人生の交差点」の灯りがまだ小さく点いている。


閉店前の最後の灯り。


それはまるで、誰かの心が完全には消えないように残している火みたいだった。



---


あすかは思う。


自分は今、何を求めてこの店に来ているのだろう。


恋愛ではない。


酒でもない。


たぶん、自分がここにいてもいいと思える感覚。


それを確かめに来ている。



---


そして少しずつ、その感覚に依存し始めていることに、まだ彼女は気づいていなかった。

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