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あすかの幸せについて  作者: こうた
第1章 温もりを得た冬

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第8話 優しさに慣れてしまう前に

その日は珍しく残業だった。


時計の針は二十二時を過ぎている。


オフィスには数人しか残っていない。


蛍光灯の白い光が、疲れた顔を余計に青く見せていた。



---


「先に帰ります」


後輩が軽く頭を下げる。


「あ、お疲れ」


あすかも笑顔を返す。


いつものように。


ちゃんとしている人間として。



---


ドアが閉まる。


静かになる。


その瞬間、あすかは小さく息を吐いた。


誰もいなくなると、自分の疲れが急に重くなる。



---


パソコンを閉じる。


肩が固い。


目も痛い。


それでも、一番疲れているのは体じゃない気がした。



---


会社を出ると、冬の空気が頬に刺さる。


街はまだ明るい。


酔った笑い声。

タクシーのライト。

信号待ちをする人々。


みんな、どこかへ帰っていく。



---


あすかはスマホを見る。


通知はない。


最近は、それを確認するたびに少しだけ思ってしまう。


もし今、「今日来ないの?」と言ってくれる人がいたら。


そんなこと。



---


すぐに首を振る。


期待するな。


依存するな。


昔から、自分に言い聞かせてきた言葉だった。



---


それでも足は、自然にあの路地へ向かっていた。



---


「人生の交差点」


遅い時間だからか、店の灯りがいつもより柔らかく見える。


あすかは扉を開ける。


カラン。



---


「お疲れさま」


マスターが言った。


その瞬間、胸の奥が少しだけ揺れる。


ただの挨拶。


でも、今日一日で一番、心に入ってきた言葉だった。



---


席に座る。


今日は客が少ない。


カウンターの端に男性が一人いるだけだった。



---


マスターは何も聞かずに酒を作る。


あすかはその手元をぼんやり見つめる。


氷の音。

グラスの揺れる音。

静かな所作。


最近、自分はこの時間を待っている。


それを認めるのが少し怖かった。



---


「今日は遅かったね」


「残業でした」


「顔に出てる」


「そんなにひどいですか」


「頑張りすぎの顔」



---


あすかは苦笑する。


その言葉に反論できない。



---


「仕事、嫌いじゃないんです」


グラスを見つめながら言う。


「でも、ずっと気を張ってる感じがして」


マスターは静かに聞いている。



---


「ちゃんとしてないと駄目な気がするんです」


「誰に?」


その問いに、あすかは少し止まる。



---


誰に。


上司?

同僚?

親?


違う気がした。


たぶん、自分自身だ。



---


「分からないです」


小さく答える。


マスターはうなずくだけだった。



---


「真面目な人ほど、自分に厳しい」


「それ、褒めてます?」


「半分だけ」



---


あすかは少し笑った。


最近、この店では自然に笑う瞬間が増えている。


無理に作る笑顔じゃない。


気づけば出ている笑い方。



---


それが嬉しくて、同時に怖かった。



---


「怖い?」


マスターが突然言う。


あすかは驚いて顔を上げる。


「顔に出てた」



---


見透かされている。


でも、不快ではない。


むしろ、自分でも気づかなかった感情を拾われた感じだった。



---


「……慣れるのが怖いんです」


あすかは静かに言う。


「ここに来ることも、この空気も」


少し間を置く。


「優しくされるのも」



---


店の空気が静かになる。


マスターはすぐには答えなかった。



---


「優しさって、慣れると必要になるからね」


その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。



---


あすかはグラスを握る。


必要になる。


つまり、それがなくなったとき苦しくなる。



---


昔、恋人がいた頃もそうだった。


最初は些細な優しさに驚いていた。


連絡。

気遣い。

待っていてくれること。


でも慣れてしまうと、それが当然になる。


失った瞬間、世界から温度が消える。



---


「だから、人に期待しないほうが楽だと思ってました」


あすかはぽつりと言う。


マスターは静かに聞いている。



---


「でも、それだとずっと寒いままだよ」



---


その言葉が、胸の奥へ落ちた。


寒いまま。


あすかは今まで、傷つかない代わりに、自分の心まで冷やしていたのかもしれない。



---


店の奥の客が帰る。


気づけば、また二人だけになっていた。



---


「ここ、不思議です」


あすかは言う。


「何回も来てるのに、まだ少し緊張する」


「ちょうどいいんじゃない」


「そういうものですか」


「安心しすぎると、人は眠るから」



---


その言葉を聞きながら、あすかは思う。


自分は今、起き始めているのかもしれない。


長い間、感情を薄くして生きてきた。


でも最近、少しずつ心が動く。


嬉しい。

寂しい。

安心する。

また来たい。


そんな単純な感情が戻ってきている。



---


帰り際。


マスターが小さく言った。


「無理して強くいなくていい」



---


その瞬間、あすかは返事ができなかった。


胸の奥が熱くなる。


泣くほどではない。


でも、ずっと張っていた何かに、小さなひびが入った気がした。



---


外へ出る。


夜風が吹く。


冷たい。


でも今日は、その冷たさの奥に、確かに温もりが残っていた。



---


あすかは歩きながら思う。


人は、優しさに慣れてしまう。


でも、だからこそ生きられるのかもしれない。



---


そして今、自分は少しずつ、


“誰かがいる夜”を求め始めていた。

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