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あすかの幸せについて  作者: こうた
第6章 寂しさを思い出す春

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第8話 戻らない日常の輪郭

日常は壊れるのではなく、輪郭を失っていく。



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気づいたときには、もう以前の形では認識できない。



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あすかはそれを、今になって理解し始めていた。



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五月下旬。



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春はすでに終わりに向かい、


空気の中に少しだけ夏の気配が混ざっている。



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「人生の交差点」



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夜。



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扉を開ける。



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カラン。



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マスターは軽くうなずく。



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「最近、来る時間もバラバラだね」



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あすかは少しだけうなずく。



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「決まってないので」



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その言葉には説明がない。



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しかしそれ以上の説明も必要なかった。



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席に座る。



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グラスが置かれる。



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今日は少しだけ濃い味だった。



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しかしそれは安定ではなく、


無理に形を保っているような濃さだった。



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悠真は来ない。



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連絡もない。



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それでもあすかは、もう“待つ”という行為をしていない。



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ただ、時間を過ごしているだけだった。



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを拭いている。



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その動きだけが、店の時間をつないでいる。



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あすかは視線を落とす。



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戻らない日常の輪郭。



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それは失われたわけではない。



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ただ、手でなぞっても形が分からなくなっているだけだ。



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関係も同じだった。



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消えていない。



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でも、以前のようには触れない。



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グラスを飲む。



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味はあるようでない。



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その曖昧さが今の現実そのものだった。



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やがて店を出る時間になる。



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マスターは軽くうなずく。



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「無理に戻さなくていいよ」



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あすかは少しだけ間を置く。



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「戻れるものなんでしょうか」



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マスターはすぐには答えない。



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そして静かに言う。



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「戻るものもあるし、戻らないものもある」



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それだけだった。



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あすかは小さくうなずく。



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外に出る。



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春の夜は明るい。



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でもその明るさは、もう以前の意味を持たない。



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駅までの道を歩く。



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人は多い。



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世界は変わっていない。



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それでも、自分の中の配置だけが違う。



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スマートフォンは鳴らない。



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その沈黙が普通になっていることに気づく。



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電車が来る。



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あすかは乗る。



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扉が閉まる。



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その瞬間、静かに確信する。



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日常は戻っていない。



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そしてこれからも、


同じ形には戻らない。



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窓の外に街が流れる。



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あすかは思う。



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輪郭を失った日常の中で、


それでも人は生きていくのだろう。



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そしてこの関係もまた、


その中の一部として続いている。



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(第6章 第9話へ続く)

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