第9話 沈黙の習慣化
沈黙は、特別なものではなくなる。
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繰り返されることで、それは習慣に変わっていく。
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あすかはそれを、静かに受け入れ始めていた。
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六月のはじまり。
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春は完全に終わりかけている。
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空気の中には、もう夏の匂いが混ざっていた。
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それでも心だけは、まだ春の途中にいるようだった。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「最近、少し間が空くね」
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あすかは少しだけ考える。
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「そうですね」
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それだけ。
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説明はもう必要ない気がしていた。
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席に座る。
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グラスが置かれる。
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今日は薄い味だった。
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薄さは軽さではなく、
“感情が入っていない状態”に近い。
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悠真は来ない。
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連絡もない。
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それが当たり前になっている。
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当たり前になってしまったことが、
一番の変化だった。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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その音が一定のリズムを刻む。
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あすかは視線を落とす。
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沈黙の習慣化。
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それは慣れではない。
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諦めでもない。
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ただ、選択肢が減った結果だった。
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期待することもなく、
失望することもなく、
ただそこにいる。
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その状態が続いている。
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グラスを飲む。
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味はもうほとんど感じない。
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それでも飲むという行為だけが残っている。
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やがて店を出る時間になる。
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マスターは軽くうなずく。
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「静かになったね」
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あすかは少しだけ笑う。
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「静かになりすぎたかもしれません」
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マスターは何も言わない。
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ただその言葉を受け止めるだけだった。
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外に出る。
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夜はもう春ではない。
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空気は湿り気を帯びている。
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駅までの道を歩く。
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人は多い。
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世界は変わらない。
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ただ、自分の中だけが少しずつ違う方向へ進んでいる。
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スマートフォンは鳴らない。
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それでも不安はない。
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それが一番静かな異常だった。
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電車が来る。
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あすかは乗る。
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扉が閉まる。
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その瞬間、はっきりと分かる。
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これは喪失ではない。
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しかし、維持でもない。
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その中間が、長く続いているだけだ。
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窓の外に夜が流れる。
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あすかは思う。
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沈黙は終わらない。
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ただ、形を変えて続いていく。
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そしてその中で、
何かが少しずつ薄れていく。
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(第6章 第10話へ続く)




