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あすかの幸せについて  作者: こうた
第6章 寂しさを思い出す春

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第6話 置き去りにされた現在

置き去りにされるというのは、誰かが去ることだけではない。



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同じ場所に立っているのに、


時間だけが先へ進んでしまうこともそうだった。



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あすかは最近、その感覚をはっきり意識していた。



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五月のはじまり。



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春はすでに中盤に差しかかり、


空気には少しだけ夏の気配が混ざり始めている。



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それでも、心の温度は追いついていない。



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「人生の交差点」



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夜。



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扉を開ける。



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カラン。



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マスターは軽くうなずく。



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「久しぶりに落ち着いた顔してるね」



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あすかは少しだけ間を置く。



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「落ち着いたというより」



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「止まってるだけかもしれません」



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを置く。



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今日は少しだけ薄い味だった。



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薄さは軽さではなく、


“残っていない感覚”に近かった。



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悠真は来ない。



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連絡もない。



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その状態が続いている。



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最初は「距離」だった。



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今は「空白」に近い。



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あすかはスマートフォンを見ない。



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見ても意味がないことを理解しているからではない。



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見たくない自分がいるからだった。



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マスターは静かにグラスを拭く。



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その音が、今日はやけに規則的に響く。



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あすかは視線を落とす。



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置き去りにされた現在。



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それは過去でも未来でもない。



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ただ“今だけが抜け落ちている状態”だった。



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関係は終わっていない。



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でも、進んでもいない。



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その中途半端さが、少しずつ心を摩耗させていく。



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グラスを飲む。



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味はほとんどない。



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でも飲み込む動作だけが習慣として残っている。



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やがて店を出る時間になる。



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マスターは軽くうなずく。



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「無理しない方がいいよ」



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あすかは少しだけ笑う。



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「もう無理してるのかも分かりません」



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マスターはそれ以上言わない。



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ただ目を細めるだけだった。



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外に出る。



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春の夜は明るい。



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でもその明るさが、今は少しだけ遠い。



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駅までの道を歩く。



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人は多い。



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誰も止まっていない。



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自分だけが少し遅れているように感じる。



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スマートフォンは鳴らない。



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もう“待つ”という行為は形を変えている。



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期待でも不安でもない。



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ただの習慣の残骸だった。



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電車が来る。



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光が流れる。



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あすかは乗る。



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扉が閉まる。



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その瞬間、はっきりと分かる。



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あの場所はもう“日常”ではない。



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そして自分もまた、


以前の自分ではない。



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窓の外に春が流れる。



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あすかは思う。



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置き去りにされたのは関係ではない。



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今という時間そのものだった。



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そしてその空白の中で、


何かが静かに終わり始めている。



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(第6章 第7話へ続く)

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