第5話 返ってこない温度
返事がないことは、沈黙ではない。
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それは「別の時間で生きている」という合図だった。
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あすかはその感覚に、少しずつ慣れ始めていた。
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四月下旬。
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春は完全に街を支配している。
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桜は散り、葉が増え、
景色は“安定した春”になっていた。
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それなのに、心の中だけが追いついていない。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「今日は静かだね」
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あすかは小さくうなずく。
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「静かにしたくて来ました」
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マスターはそれ以上言わない。
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グラスが置かれる。
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今日は軽い味だった。
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しかしその軽さは救いではなく、
“希薄さ”に近いものだった。
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悠真は来ない。
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連絡もない。
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いや、正確には「返ってこない」。
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あすかはスマートフォンを見ないようにしていた。
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見るたびに、
何かが少しだけ削られる気がするからだった。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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その動作が、今日だけ少し遅い。
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あすかは視線を落とす。
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返ってこない温度。
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それは冷たさではない。
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消えているわけでもない。
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ただ、届かない場所に移動しただけ。
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その中途半端さが一番厄介だった。
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グラスを口に運ぶ。
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味はしない。
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それでも飲み込む。
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時間だけが過ぎていく。
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やがて店を出る。
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マスターは軽くうなずく。
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何も言わない。
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その沈黙が、少しだけ優しかった。
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外に出る。
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春の夜は明るい。
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人は多い。
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世界は何も変わっていない。
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それでも自分の位置だけが違う。
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駅までの道を歩く。
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スマートフォンは鳴らない。
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もう期待もしない。
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それが少しだけ怖い。
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電車の音が近づく。
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その瞬間、あすかは思う。
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これは終わりではない。
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でも、もう“同じ場所”にはいない。
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電車に乗る。
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扉が閉まる。
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静かな圧が内側に残る。
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あすかは窓を見る。
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春の街が流れていく。
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返ってこないものは、
失われたものと同じではない。
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しかし、戻ることもない。
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その中間にずっと置かれている。
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スマートフォンが震えることはなかった。
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それが答えだった。
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あすかは目を閉じる。
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心のどこかで、
何かが確実に変わり続けている。
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でもまだ、
それを言葉にできなかった。
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(第6章 第6話へ続く)




