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あすかの幸せについて  作者: こうた
第6章 寂しさを思い出す春

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第5話 返ってこない温度

返事がないことは、沈黙ではない。



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それは「別の時間で生きている」という合図だった。



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あすかはその感覚に、少しずつ慣れ始めていた。



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四月下旬。



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春は完全に街を支配している。



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桜は散り、葉が増え、


景色は“安定した春”になっていた。



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それなのに、心の中だけが追いついていない。



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「人生の交差点」



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夜。



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扉を開ける。



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カラン。



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マスターは軽くうなずく。



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「今日は静かだね」



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あすかは小さくうなずく。



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「静かにしたくて来ました」



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マスターはそれ以上言わない。



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グラスが置かれる。



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今日は軽い味だった。



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しかしその軽さは救いではなく、


“希薄さ”に近いものだった。



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悠真は来ない。



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連絡もない。



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いや、正確には「返ってこない」。



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あすかはスマートフォンを見ないようにしていた。



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見るたびに、


何かが少しだけ削られる気がするからだった。



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マスターは何も言わない。



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ただグラスを拭いている。



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その動作が、今日だけ少し遅い。



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あすかは視線を落とす。



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返ってこない温度。



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それは冷たさではない。



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消えているわけでもない。



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ただ、届かない場所に移動しただけ。



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その中途半端さが一番厄介だった。



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グラスを口に運ぶ。



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味はしない。



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それでも飲み込む。



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時間だけが過ぎていく。



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やがて店を出る。



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マスターは軽くうなずく。



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何も言わない。



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その沈黙が、少しだけ優しかった。



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外に出る。



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春の夜は明るい。



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人は多い。



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世界は何も変わっていない。



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それでも自分の位置だけが違う。



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駅までの道を歩く。



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スマートフォンは鳴らない。



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もう期待もしない。



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それが少しだけ怖い。



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電車の音が近づく。



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その瞬間、あすかは思う。



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これは終わりではない。



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でも、もう“同じ場所”にはいない。



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電車に乗る。



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扉が閉まる。



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静かな圧が内側に残る。



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あすかは窓を見る。



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春の街が流れていく。



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返ってこないものは、


失われたものと同じではない。



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しかし、戻ることもない。



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その中間にずっと置かれている。



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スマートフォンが震えることはなかった。



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それが答えだった。



---


あすかは目を閉じる。



---


心のどこかで、


何かが確実に変わり続けている。



---


でもまだ、


それを言葉にできなかった。



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(第6章 第6話へ続く)

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