第9話 境界線の温度
境界線は、目に見えない。
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だからこそ、人は何度も越えたり戻ったりする。
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あすかはその線の上を、少しずつ歩いているような感覚があった。
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十一月に近づく頃。
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街の色は明らかに変わっていた。
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空気は乾き、
夕方は早く終わる。
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「人生の交差点」
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あすかはいつもの席に座っていた。
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カラン。
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扉が開く。
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マスターは軽くうなずく。
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「今日は少し迷ってる顔だね」
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あすかは少し笑う。
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「分かりますか」
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「分かる」
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短く、それだけ。
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悠真はまだ来ていない。
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今日は少し遅れると連絡があった。
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その一文があるだけで、
以前よりも心は安定している。
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ただ、それでも“待つ時間”はある。
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その時間は思考を連れてくる。
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扉が開く。
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カラン。
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悠真だった。
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「遅くなった」
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「大丈夫です」
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座る。
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いつもの流れ。
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でも今日は少し違う空気があった。
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悠真が言う。
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「最近さ」
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あすかは顔を上げる。
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「一緒にいるの、普通になってきたよな」
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あすかは少し考える。
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「そうですね」
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その“普通”という言葉に、
少しだけ引っかかるものがあった。
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普通。
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安定。
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安心。
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そのどれもが、
かつて求めていたものだった。
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でも今は、
それだけでは足りない気もしている。
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悠真が続ける。
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「でもさ」
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少し間。
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「このまま続けていいのかって思う時もある」
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あすかは視線を落とす。
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またその話だ。
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でも今回は違う。
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否定でも肯定でもない。
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ただの確認のような声だった。
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あすかはゆっくり言う。
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「私は……続けたいです」
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小さな声。
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でもはっきりしていた。
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悠真は少しだけ目を細める。
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「理由、聞いてもいい?」
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あすかは少し考える。
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理由。
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前なら答えられなかった。
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でも今は違った。
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「安心するからです」
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少し間。
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「不安もあるけど」
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続ける。
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「それでも、離れたくはないです」
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その言葉に、悠真は静かにうなずく。
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「そっか」
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それだけだった。
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でもその一言は、
以前より深く響いた。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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それが答えを急がない空気を作っていた。
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帰り道。
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並んで歩く。
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夜は冷たい。
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でも以前より距離は近い。
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その距離が、少しだけ怖い。
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悠真が言う。
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「境界線ってさ」
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あすかは顔を向ける。
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「どこにあるんだろうな」
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あすかは少し考える。
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そして言う。
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「たぶん、決まってないと思います」
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「その時その時で変わるものなんじゃないかって」
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悠真は少し笑う。
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「曖昧だな」
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「あ、でもそれが普通なのかも」
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その言葉に少しだけ救われる。
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駅が見える。
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別れ際。
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以前よりも自然な沈黙。
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でも少しだけ長い。
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その“少し”が意味を持っている。
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改札前。
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悠真が言う。
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「また明日」
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あすかはうなずく。
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「はい」
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改札を抜ける背中。
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その背中はもう遠くない。
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でも完全に近いわけでもない。
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その中間にいる。
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あすかは思う。
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境界線は消えるものではない。
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ただ、
その上でどう歩くかが変わるだけだ。
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秋の夜風が少しだけ冷たい。
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でも心は以前より静かだった。
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揺れはある。
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でもそれは崩れではない。
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進み方の形になり始めていた。
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第4章 第10話「確かさの輪郭」へ続く




