第9話 伝えられない言葉
言葉は、心の中にある時がいちばん綺麗だ。
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口にした瞬間、
少しだけ形が崩れる。
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そして時には、
戻れなくなる。
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八月中旬。
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夏はさらに深くなっていた。
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朝から強い日差し。
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アスファルトは熱を持ち、
空気が揺れている。
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あすかは駅へ向かう途中、
何度も深呼吸をしていた。
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今日は悠真に会う日だった。
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ただ会うだけ。
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それだけなのに緊張している。
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理由は分かっていた。
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伝えたいことが、
少しずつ形を持ち始めていたからだ。
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「好き」
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その二文字。
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頭の中では何度も言っている。
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でも声にはならない。
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言ってしまったら、
今の関係が壊れる気がする。
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壊したくない。
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でも進みたい。
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その矛盾がずっと胸の中にある。
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「人生の交差点」
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扉を開ける。
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カラン。
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「いらっしゃい」
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マスターはすぐに気づいた。
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「今日はいつもより静かだね」
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「そうですか?」
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「うん」
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あすかは苦笑する。
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隠しているつもりなのに、
全部見えてしまう。
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グラスが置かれる。
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悠真はまだ来ていない。
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それだけで少し落ち着かない。
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最近、
この“待つ時間”が増えた。
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それは悪いことではない。
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でも、
心が先に動いてしまう。
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扉が開く。
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カラン。
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悠真だった。
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「遅れた」
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「いえ、大丈夫です」
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自然なやり取り。
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でもあすかの心は少しだけ騒いでいた。
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今日は言う。
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そう決めていた。
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好きだと。
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何度も心の中で繰り返した。
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でも実際に向き合うと、
言葉は喉で止まる。
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会話が始まる。
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仕事の話。
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最近の出来事。
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いつも通りの時間。
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その中で、
あすかはずっとタイミングを探していた。
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でも見つからない。
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普通の会話の中に、
告白を挟む隙間はない。
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時間が過ぎる。
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店の客は減っていく。
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夜が深くなる。
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そして帰る時間が近づく。
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あすかの心臓が速くなる。
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今しかない。
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そう思う。
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でも。
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言えない。
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悠真がグラスを置く。
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「今日は少し疲れた」
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その言葉に少しだけ間ができる。
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あすかは顔を上げる。
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「大丈夫ですか?」
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「うん」
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少し笑う。
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「でもこういう場所来ると落ち着く」
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その言葉が嬉しい。
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同時に苦しい。
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この時間が続けばいいと思ってしまう。
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でも続けるには、
何かを変えなければいけない。
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店の外ではなく、
もっと近い場所へ。
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それを自分は望んでいる。
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帰り際。
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駅へ向かう道。
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夜風は少しだけ涼しい。
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あすかは何度も口を開きかけて、
やめる。
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その繰り返し。
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悠真が気づく。
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「今日、なんか言いたそうだね」
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その一言で心臓が跳ねる。
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「え?」
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「いや、ずっと何か考えてる顔してる」
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見抜かれている。
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全部。
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あすかは立ち止まる。
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今しかない。
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今なら言える。
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でも。
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怖い。
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息を吸う。
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吐く。
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そして。
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言葉を出そうとした瞬間。
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「悠真さん」
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声がかすれる。
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その先が続かない。
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沈黙。
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夜の音だけが流れる。
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虫の声。
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遠くの車。
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そして自分の心臓の音。
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悠真は待っている。
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何も言わずに。
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その優しさが、
余計に苦しい。
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あすかは目を伏せる。
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そして言う。
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「なんでもないです」
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その瞬間。
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心の中で何かが崩れた。
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言えなかった。
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また。
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悠真は少しだけ笑う。
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「そっか」
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それだけ。
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追及しない。
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その優しさが痛い。
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駅が見える。
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別れの時間。
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いつも通り。
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でも今日は違った。
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自分だけが、
何かを置き去りにした気がする。
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悠真が言う。
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「また明日」
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「はい」
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声が小さい。
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改札へ向かう背中。
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あすかは見送る。
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そして思う。
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伝えられない言葉は、
消えない。
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ずっと残る。
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心の中に沈んでいく。
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好き。
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その二文字は、
今日も言えなかった。
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そしてそれは、
明日もきっと同じだと思った。
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夏はまだ続いている。
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けれど、
この夏のどこかで、
何かが決定的に変わろうとしていた。
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あすかはまだそれに気づいていない。
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ただ、
戻れない場所へ一歩ずつ進んでいるだけだった。
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第3章 第10話「揺れる距離」へ続く




