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あすかの幸せについて  作者: こうた
第2章 はじまりの気配を感じる春

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第4話 境界線がほどける夜

春の夜は、少しだけ気が緩む。


コートの前を閉めなくても歩ける日が増えてきた。


それだけで、人の心は油断する。


あすかはそのことを、最近よく感じていた。



---


仕事を終えた帰り道。


今日は少しだけ疲れている。


理由は単純だった。


昼間、悠真のことを何度か思い出してしまったからだ。



---


「また来ます」


その言葉。


ただの社交辞令かもしれない。


でも、そうであってほしくない自分もいる。



---


その矛盾が、少しだけ心を揺らす。



---


「人生の交差点」


扉の前で一瞬だけ迷う。


今日は行かなくてもいいのではないか。


そんな考えが浮かぶ。



---


でも、その“行かない理由”より、“行きたい理由”のほうが少しだけ強かった。



---


扉を開ける。


カラン。



---


「いらっしゃい、あすかさん」


マスターの声。


その瞬間、少しだけ安心する。



---


店内を見渡す。


悠真はいない。



---


分かっていたはずなのに、胸の奥がわずかに沈む。



---


席に座る。


グラスが置かれる。


今日は少し苦味のある香りだった。



---


「今日は一人ですね」


マスターが言う。


「そうみたいです」


あすかは軽く笑う。



---


「残念?」


その問いに、一瞬詰まる。



---


「……分からないです」


正直な答えだった。



---


マスターはうなずくだけだった。


それ以上は聞かない。



---


その沈黙がありがたかった。



---


グラスを見つめる。


液体の中に、自分の顔が揺れている。



---


最近、自分の感情が少しずつ分かりにくくなっている。



---


嬉しいのか。

寂しいのか。

期待しているのか。


どれも完全には言い切れない。



---


ただ一つだけ分かるのは、


この店に来ると、心が動くということだった。



---


扉が開く。


カラン。



---


心臓が一瞬だけ反応する。



---


振り向く。


悠真だった。



---


「こんばんは」


「こんばんは」



---


それだけのやり取りなのに、少し息が浅くなる。



---


悠真はいつも通りの場所に座る。


でも今日は、少しだけ距離が近い席だった。



---


マスターがグラスを置く。


何も言わない。


ただ淡々と仕事をする。



---


「来ると思ってました」


悠真が軽く言う。


あすかは小さくため息をつく。


「それ、やめてください」



---


「なんで?」


「期待されると困るので」



---


言ってから、自分でも少し驚く。



---


期待。


その言葉を、自分から出すとは思わなかった。



---


悠真は少し笑う。


「期待って、そんな重いものですか」



---


あすかは答えられない。



---


重いのか、軽いのか。


まだ分からない。



---


ただ、自分が誰かに見られていることが、少し怖いだけだった。



---


「昔、そういうの嫌な経験あったんですか?」


悠真が聞く。



---


あすかは少しだけ黙る。



---


「……特に大きいことじゃないです」



---


でも、その“特に”の中に色々詰まっていることを、自分でも分かっている。



---


裏切られたわけでもない。


傷つけられたわけでもない。


ただ少しずつ、人と距離を取るようになっただけ。



---


「でも、分かりますよ」


悠真が静かに言う。



---


その一言が、なぜか刺さらなかった。



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共感されることが、少しだけ心を軽くする。



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グラスの氷が小さく鳴る。



---


「ねえ」


悠真が続ける。


「この店に来る理由って、なんなんですか?」



---


あすかは一瞬止まる。



---


理由。



---


最初は逃げだった。


次は安心だった。


そして今は——



---


「分からないです」


そう答えるしかなかった。



---


悠真はうなずく。


「俺もそんな感じです」



---


その言葉が、少しだけ距離を縮める。



---


“同じ理由じゃないのに、同じ場所にいる”



---


それは奇妙な共通点だった。



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店の空気が静かに流れる。



---


マスターは少し離れた場所で、いつも通りグラスを拭いている。


その姿が、この場の境界線のように見える。



---


あすかはふと気づく。



---


この距離は、危うい。



---


近づいている。


でもまだ、壊れるほどではない。



---


その曖昧な位置に、自分は立っている。



---


帰り際。


悠真が立ち上がる。


「あすかさん」


「はい」



---


「また来ます」


その言葉はもう、昨日より軽く聞こえた。



---


でも、軽いのに少しだけ重い。



---


「……私も」


そう返す。



---


扉が閉まる。


カラン。



---


その音のあと、店の静けさが少し変わった気がした。



---


マスターがぽつりと言う。


「距離、近くなってきたね」



---


あすかは反応できない。



---


ただ、その言葉だけが胸に残る。



---


外に出る。


春の夜。


風が少しだけ生温い。



---


あすかは思う。



---


人との距離は、こんなにも気づかないうちに変わっていくのか、と。



---


そしてその変化は、戻れないほど静かに進んでいくこともあるのだと。

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