第4話 境界線がほどける夜
春の夜は、少しだけ気が緩む。
コートの前を閉めなくても歩ける日が増えてきた。
それだけで、人の心は油断する。
あすかはそのことを、最近よく感じていた。
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仕事を終えた帰り道。
今日は少しだけ疲れている。
理由は単純だった。
昼間、悠真のことを何度か思い出してしまったからだ。
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「また来ます」
その言葉。
ただの社交辞令かもしれない。
でも、そうであってほしくない自分もいる。
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その矛盾が、少しだけ心を揺らす。
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「人生の交差点」
扉の前で一瞬だけ迷う。
今日は行かなくてもいいのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
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でも、その“行かない理由”より、“行きたい理由”のほうが少しだけ強かった。
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扉を開ける。
カラン。
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「いらっしゃい、あすかさん」
マスターの声。
その瞬間、少しだけ安心する。
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店内を見渡す。
悠真はいない。
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分かっていたはずなのに、胸の奥がわずかに沈む。
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席に座る。
グラスが置かれる。
今日は少し苦味のある香りだった。
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「今日は一人ですね」
マスターが言う。
「そうみたいです」
あすかは軽く笑う。
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「残念?」
その問いに、一瞬詰まる。
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「……分からないです」
正直な答えだった。
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マスターはうなずくだけだった。
それ以上は聞かない。
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その沈黙がありがたかった。
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グラスを見つめる。
液体の中に、自分の顔が揺れている。
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最近、自分の感情が少しずつ分かりにくくなっている。
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嬉しいのか。
寂しいのか。
期待しているのか。
どれも完全には言い切れない。
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ただ一つだけ分かるのは、
この店に来ると、心が動くということだった。
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扉が開く。
カラン。
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心臓が一瞬だけ反応する。
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振り向く。
悠真だった。
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「こんばんは」
「こんばんは」
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それだけのやり取りなのに、少し息が浅くなる。
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悠真はいつも通りの場所に座る。
でも今日は、少しだけ距離が近い席だった。
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マスターがグラスを置く。
何も言わない。
ただ淡々と仕事をする。
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「来ると思ってました」
悠真が軽く言う。
あすかは小さくため息をつく。
「それ、やめてください」
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「なんで?」
「期待されると困るので」
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言ってから、自分でも少し驚く。
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期待。
その言葉を、自分から出すとは思わなかった。
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悠真は少し笑う。
「期待って、そんな重いものですか」
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あすかは答えられない。
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重いのか、軽いのか。
まだ分からない。
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ただ、自分が誰かに見られていることが、少し怖いだけだった。
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「昔、そういうの嫌な経験あったんですか?」
悠真が聞く。
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あすかは少しだけ黙る。
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「……特に大きいことじゃないです」
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でも、その“特に”の中に色々詰まっていることを、自分でも分かっている。
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裏切られたわけでもない。
傷つけられたわけでもない。
ただ少しずつ、人と距離を取るようになっただけ。
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「でも、分かりますよ」
悠真が静かに言う。
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その一言が、なぜか刺さらなかった。
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共感されることが、少しだけ心を軽くする。
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グラスの氷が小さく鳴る。
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「ねえ」
悠真が続ける。
「この店に来る理由って、なんなんですか?」
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あすかは一瞬止まる。
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理由。
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最初は逃げだった。
次は安心だった。
そして今は——
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「分からないです」
そう答えるしかなかった。
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悠真はうなずく。
「俺もそんな感じです」
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その言葉が、少しだけ距離を縮める。
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“同じ理由じゃないのに、同じ場所にいる”
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それは奇妙な共通点だった。
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店の空気が静かに流れる。
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マスターは少し離れた場所で、いつも通りグラスを拭いている。
その姿が、この場の境界線のように見える。
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あすかはふと気づく。
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この距離は、危うい。
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近づいている。
でもまだ、壊れるほどではない。
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その曖昧な位置に、自分は立っている。
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帰り際。
悠真が立ち上がる。
「あすかさん」
「はい」
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「また来ます」
その言葉はもう、昨日より軽く聞こえた。
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でも、軽いのに少しだけ重い。
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「……私も」
そう返す。
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扉が閉まる。
カラン。
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その音のあと、店の静けさが少し変わった気がした。
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マスターがぽつりと言う。
「距離、近くなってきたね」
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あすかは反応できない。
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ただ、その言葉だけが胸に残る。
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外に出る。
春の夜。
風が少しだけ生温い。
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あすかは思う。
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人との距離は、こんなにも気づかないうちに変わっていくのか、と。
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そしてその変化は、戻れないほど静かに進んでいくこともあるのだと。




