表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あすかの幸せについて  作者: こうた
第2章 はじまりの気配を感じる春

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/141

第3話 近づきすぎる距離

春の夜は、少しだけ長く感じる。


寒さが和らぐと、時間の輪郭がぼやけるせいかもしれない。


あすかは仕事を終えたあと、いつものように路地へ向かっていた。


ただ今日は、いつもより足が軽い。


理由は分かっている。



---


悠真にまた会えるかもしれない。


その期待が、心のどこかで小さく灯っている。



---


「人生の交差点」


扉の前で一度だけ立ち止まる。


深呼吸。


そして開ける。


カラン。



---


「いらっしゃい、あすかさん」


マスターの声。


その言葉に軽くうなずきながら、店内を見る。



---


悠真はいた。


昨日と同じ場所ではなく、少しだけ奥の席。


コーヒー色のグラスを前にしている。



---


その瞬間、胸の奥がふっと緩む。


あすかは自分でも驚くほど、その感情を隠せなかった。



---


席に座る。


悠真が気づく。


「こんばんは」


「こんばんは」


昨日より少しだけ自然に言えた気がした。



---


「来ると思ってました」


悠真が軽く笑う。


「あ、そういうのやめてください」


あすかは思わず返す。



---


「でも、なんとなく」


その“なんとなく”が一番危ない。


あすかはそう思った。



---


マスターがグラスを置く。


今日は少しだけ甘い香りがした。



---


「最近、ここよく来るんですね」


悠真が言う。


「あ、まあ……」


「俺も似たような感じですけど」



---


似たような感じ。


その言葉が少し安心する。



---


人は、自分と同じような人に惹かれるのかもしれない。


理由もなくここに来る人。


少し疲れている人。


何かを抱えたまま日常を過ごしている人。



---


「仕事、忙しいんですか」


あすかが聞く。


「まあ、普通に」


「普通って一番曖昧ですね」


「確かに」



---


悠真は少し笑う。


その笑い方が柔らかい。



---


会話は途切れない。


でも詰め込みすぎてもいない。


ちょうどいい距離。


そのはずだった。



---


あすかは気づく。


悠真と話していると、時間の流れが少し速くなる。


それは心地よさでもあり、少し怖さでもある。



---


「この店、落ち着きますよね」


悠真が言う。


「そうですね」


あすかはうなずく。



---


マスターは奥で静かにグラスを拭いている。


その存在が、この空間の境界線のように感じられる。



---


「前から来てたんですか?」


悠真が聞く。


「最近です」


「でももう馴染んでますね」



---


その言葉に、少しだけ胸がくすぐられる。



---


馴染む。


ここに。


この場所に。


そして、この時間に。



---


「悠真さんは、ここで誰かと仲良くなったりするんですか」


あすかは何気なく聞いた。



---


悠真は少しだけ考える。


「うーん、昔はあったかも」


「昔は?」


「今は、あんまり深くはしないようにしてる」



---


その言葉に、あすかは少し引っかかる。



---


「どうしてですか」


「距離近くなると、面倒になることもあるから」



---


その言い方は軽い。


でも少しだけ経験が滲んでいた。



---


あすかは黙る。


自分も似たような感覚を持っていたからだ。



---


人と近づくことは、安心でもあり、負担でもある。



---


「でもさ」


悠真が続ける。


「気づいたら近くにいる人って、いるじゃないですか」



---


あすかはその言葉で息が止まる。



---


気づいたら近くにいる人。



---


今の自分にとって、それは誰だろう。



---


マスターでもない。


会社の人でもない。



---


そして、その答えが一瞬だけ浮かびかけて、すぐに消える。



---


「そういうの、ちょっと怖いですよね」


あすかは小さく言う。



---


悠真は笑う。


「分かる。でも、悪いことでもない」



---


悪いことではない。


その曖昧さが一番危険だ。



---


会話は続く。


でも、あすかの中では何かが少しずつ変わっていく。



---


悠真の存在が、ただの“客”から少しずつ外れていく。



---


帰り際。


悠真が立ち上がる。


「あすかさん」


「はい」



---


「また来ます」


「……私も」



---


そのやり取りが、少しだけ日常になり始めている。



---


扉が閉まる。


カラン。



---


静けさが戻る。


その瞬間、あすかは気づく。



---


悠真がいなくなっただけで、少しだけ寂しい。



---


それはまだ小さな感情。


でも確かにそこにあった。



---


マスターがぽつりと言う。


「少し、近づいたね」



---


あすかは驚く。


「何がですか」



---


マスターはそれ以上言わない。


ただグラスを拭いている。



---


その沈黙が、妙に意味深だった。



---


外へ出る。


春の夜風。


少しだけ甘い匂い。



---


あすかは歩きながら思う。



---


人と近づくことは、こんなにも静かに始まるのか、と。



---


そしてその距離が、どこへ向かうのかはまだ誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ