第3話 近づきすぎる距離
春の夜は、少しだけ長く感じる。
寒さが和らぐと、時間の輪郭がぼやけるせいかもしれない。
あすかは仕事を終えたあと、いつものように路地へ向かっていた。
ただ今日は、いつもより足が軽い。
理由は分かっている。
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悠真にまた会えるかもしれない。
その期待が、心のどこかで小さく灯っている。
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「人生の交差点」
扉の前で一度だけ立ち止まる。
深呼吸。
そして開ける。
カラン。
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「いらっしゃい、あすかさん」
マスターの声。
その言葉に軽くうなずきながら、店内を見る。
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悠真はいた。
昨日と同じ場所ではなく、少しだけ奥の席。
コーヒー色のグラスを前にしている。
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その瞬間、胸の奥がふっと緩む。
あすかは自分でも驚くほど、その感情を隠せなかった。
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席に座る。
悠真が気づく。
「こんばんは」
「こんばんは」
昨日より少しだけ自然に言えた気がした。
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「来ると思ってました」
悠真が軽く笑う。
「あ、そういうのやめてください」
あすかは思わず返す。
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「でも、なんとなく」
その“なんとなく”が一番危ない。
あすかはそう思った。
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マスターがグラスを置く。
今日は少しだけ甘い香りがした。
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「最近、ここよく来るんですね」
悠真が言う。
「あ、まあ……」
「俺も似たような感じですけど」
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似たような感じ。
その言葉が少し安心する。
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人は、自分と同じような人に惹かれるのかもしれない。
理由もなくここに来る人。
少し疲れている人。
何かを抱えたまま日常を過ごしている人。
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「仕事、忙しいんですか」
あすかが聞く。
「まあ、普通に」
「普通って一番曖昧ですね」
「確かに」
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悠真は少し笑う。
その笑い方が柔らかい。
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会話は途切れない。
でも詰め込みすぎてもいない。
ちょうどいい距離。
そのはずだった。
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あすかは気づく。
悠真と話していると、時間の流れが少し速くなる。
それは心地よさでもあり、少し怖さでもある。
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「この店、落ち着きますよね」
悠真が言う。
「そうですね」
あすかはうなずく。
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マスターは奥で静かにグラスを拭いている。
その存在が、この空間の境界線のように感じられる。
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「前から来てたんですか?」
悠真が聞く。
「最近です」
「でももう馴染んでますね」
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その言葉に、少しだけ胸がくすぐられる。
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馴染む。
ここに。
この場所に。
そして、この時間に。
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「悠真さんは、ここで誰かと仲良くなったりするんですか」
あすかは何気なく聞いた。
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悠真は少しだけ考える。
「うーん、昔はあったかも」
「昔は?」
「今は、あんまり深くはしないようにしてる」
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その言葉に、あすかは少し引っかかる。
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「どうしてですか」
「距離近くなると、面倒になることもあるから」
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その言い方は軽い。
でも少しだけ経験が滲んでいた。
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あすかは黙る。
自分も似たような感覚を持っていたからだ。
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人と近づくことは、安心でもあり、負担でもある。
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「でもさ」
悠真が続ける。
「気づいたら近くにいる人って、いるじゃないですか」
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あすかはその言葉で息が止まる。
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気づいたら近くにいる人。
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今の自分にとって、それは誰だろう。
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マスターでもない。
会社の人でもない。
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そして、その答えが一瞬だけ浮かびかけて、すぐに消える。
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「そういうの、ちょっと怖いですよね」
あすかは小さく言う。
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悠真は笑う。
「分かる。でも、悪いことでもない」
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悪いことではない。
その曖昧さが一番危険だ。
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会話は続く。
でも、あすかの中では何かが少しずつ変わっていく。
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悠真の存在が、ただの“客”から少しずつ外れていく。
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帰り際。
悠真が立ち上がる。
「あすかさん」
「はい」
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「また来ます」
「……私も」
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そのやり取りが、少しだけ日常になり始めている。
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扉が閉まる。
カラン。
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静けさが戻る。
その瞬間、あすかは気づく。
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悠真がいなくなっただけで、少しだけ寂しい。
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それはまだ小さな感情。
でも確かにそこにあった。
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マスターがぽつりと言う。
「少し、近づいたね」
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あすかは驚く。
「何がですか」
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マスターはそれ以上言わない。
ただグラスを拭いている。
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その沈黙が、妙に意味深だった。
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外へ出る。
春の夜風。
少しだけ甘い匂い。
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あすかは歩きながら思う。
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人と近づくことは、こんなにも静かに始まるのか、と。
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そしてその距離が、どこへ向かうのかはまだ誰も知らなかった。




