第5話 戻れない速度
春の雨は、冬の雨より優しい。
冷たさよりも、空気を濡らす静けさが目立つ。
あすかは傘を差しながら、駅からの道を歩いていた。
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今日は少しだけ迷いがあった。
行くべきかどうか。
悠真がいるかもしれない場所へ向かう自分に、まだ慣れていない。
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それでも足は止まらない。
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「人生の交差点」
看板の灯りが、雨に滲んで見える。
あすかは一度息を吸ってから扉を開けた。
カラン。
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店内は静かだった。
雨の日特有の落ち着き。
客は少ない。
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「いらっしゃい、あすかさん」
マスターの声。
その瞬間、少しだけ肩が軽くなる。
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悠真はまだいない。
その事実に、あすかは小さく息を吐いた。
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「今日は雨ですね」
あすかが言う。
「春の雨だね」
マスターは短く答える。
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グラスが置かれる。
いつもより少しだけ重い香り。
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「最近、ここに来るの早いですね」
マスターが言う。
「あ、そうですか?」
「うん。迷いが減った顔してる」
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その言葉に、あすかは少し黙る。
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迷いが減った。
それはいいことなのか。
それとも危険なのか。
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分からない。
でも一つだけ確かなのは、
この場所へ来ることに、もう“理由”を探していないということだった。
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扉が開く。
カラン。
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心臓が反射的に動く。
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悠真だった。
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「濡れた」
軽く笑いながら入ってくる。
コートの肩が少し濡れている。
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「雨、強くなってきたね」
悠真が言う。
「そうですね」
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自然な会話。
でも、あすかの中では少し違う意味を持つ。
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悠真がいるだけで、空気が変わる。
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それが怖い。
そして少し嬉しい。
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マスターは変わらず静かにしている。
ただ、その沈黙が少しだけ観察しているようにも感じられる。
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「今日は早いですね」
あすかが言う。
「たまたま早く終わった」
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悠真はいつもの席に座る。
でも今日は少しだけ距離が近い。
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あすかは気づく。
ほんの数十センチの違い。
それだけで、世界は変わる。
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「最近、仕事どうですか」
悠真が聞く。
「普通です」
「普通って便利ですね」
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あすかは少し笑う。
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会話は自然に続く。
でもその中に、少しずつ“個人”が混ざり始めている。
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仕事の話。
休日の過ごし方。
好きな食べ物。
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どれも軽い。
でも軽いからこそ、心に入りやすい。
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あすかは気づく。
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この人と話す時間が、少しだけ長く感じられる。
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それは楽しいというより、
“もっと続いてほしい”に近い感覚だった。
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その感覚が、少し怖い。
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「ねえ」
悠真が言う。
「この前より、話しやすくなりましたよね」
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あすかは一瞬止まる。
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「そうですか?」
「うん。最初は距離あったけど」
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距離。
その言葉が胸に刺さる。
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確かに、距離はあった。
でも今はどうだろう。
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完全に近いわけではない。
でも遠くもない。
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その中間が、一番危うい。
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マスターはグラスを拭きながら、何も言わない。
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その沈黙が逆に意味を持っている気がする。
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「人と距離近くなるの、苦手なんですか?」
悠真が聞く。
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あすかは少し迷う。
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「……苦手というか」
言葉を探す。
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「近くなりすぎると、壊れる気がして」
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正直な言葉だった。
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悠真は少しだけ黙る。
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「壊れる前にやめる感じ?」
「そう、かもしれないです」
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その会話は静かだった。
でも、深い場所に触れている気がした。
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悠真は少し笑う。
「俺も似てるかも」
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その言葉が、少しだけ救いになる。
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同じではない。
でも似ている。
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それだけで、人は少し安心する。
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時間が過ぎる。
雨の音が強くなる。
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店の中は変わらず静かだ。
でも空気だけが少しずつ変わっている。
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帰り際。
悠真が立ち上がる。
「あすかさん」
「はい」
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一瞬、間が空く。
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「また明日も来ます」
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その言葉に、あすかの胸が小さく動く。
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“また明日”
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それは、今までの「また来ます」とは違う重さだった。
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あすかは少しだけ迷ってから答える。
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「……私も」
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扉が閉まる。
カラン。
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雨音が店に戻る。
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マスターが静かに言う。
「少し速いね」
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あすかは顔を上げる。
「何がですか」
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マスターはそれ以上言わない。
ただグラスを拭き続ける。
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その沈黙が、少しだけ怖かった。
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外に出る。
雨はまだ降っている。
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あすかは思う。
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人と人の距離は、気づいたときにはもう戻れない場所まで進んでいることがある。
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そして今、自分はその“戻れない速度”の中にいるのかもしれない、と。




