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あすかの幸せについて  作者: こうた
第2章 はじまりの気配を感じる春

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第5話 戻れない速度

春の雨は、冬の雨より優しい。


冷たさよりも、空気を濡らす静けさが目立つ。


あすかは傘を差しながら、駅からの道を歩いていた。



---


今日は少しだけ迷いがあった。


行くべきかどうか。


悠真がいるかもしれない場所へ向かう自分に、まだ慣れていない。



---


それでも足は止まらない。



---


「人生の交差点」


看板の灯りが、雨に滲んで見える。


あすかは一度息を吸ってから扉を開けた。


カラン。



---


店内は静かだった。


雨の日特有の落ち着き。


客は少ない。



---


「いらっしゃい、あすかさん」


マスターの声。


その瞬間、少しだけ肩が軽くなる。



---


悠真はまだいない。


その事実に、あすかは小さく息を吐いた。



---


「今日は雨ですね」


あすかが言う。


「春の雨だね」


マスターは短く答える。



---


グラスが置かれる。


いつもより少しだけ重い香り。



---


「最近、ここに来るの早いですね」


マスターが言う。


「あ、そうですか?」


「うん。迷いが減った顔してる」



---


その言葉に、あすかは少し黙る。



---


迷いが減った。


それはいいことなのか。


それとも危険なのか。



---


分からない。


でも一つだけ確かなのは、


この場所へ来ることに、もう“理由”を探していないということだった。



---


扉が開く。


カラン。



---


心臓が反射的に動く。



---


悠真だった。



---


「濡れた」


軽く笑いながら入ってくる。


コートの肩が少し濡れている。



---


「雨、強くなってきたね」


悠真が言う。


「そうですね」



---


自然な会話。


でも、あすかの中では少し違う意味を持つ。



---


悠真がいるだけで、空気が変わる。



---


それが怖い。


そして少し嬉しい。



---


マスターは変わらず静かにしている。


ただ、その沈黙が少しだけ観察しているようにも感じられる。



---


「今日は早いですね」


あすかが言う。


「たまたま早く終わった」



---


悠真はいつもの席に座る。


でも今日は少しだけ距離が近い。



---


あすかは気づく。


ほんの数十センチの違い。


それだけで、世界は変わる。



---


「最近、仕事どうですか」


悠真が聞く。


「普通です」


「普通って便利ですね」



---


あすかは少し笑う。



---


会話は自然に続く。


でもその中に、少しずつ“個人”が混ざり始めている。



---


仕事の話。

休日の過ごし方。

好きな食べ物。



---


どれも軽い。


でも軽いからこそ、心に入りやすい。



---


あすかは気づく。



---


この人と話す時間が、少しだけ長く感じられる。



---


それは楽しいというより、


“もっと続いてほしい”に近い感覚だった。



---


その感覚が、少し怖い。



---


「ねえ」


悠真が言う。


「この前より、話しやすくなりましたよね」



---


あすかは一瞬止まる。



---


「そうですか?」


「うん。最初は距離あったけど」



---


距離。


その言葉が胸に刺さる。



---


確かに、距離はあった。


でも今はどうだろう。



---


完全に近いわけではない。


でも遠くもない。



---


その中間が、一番危うい。



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マスターはグラスを拭きながら、何も言わない。



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その沈黙が逆に意味を持っている気がする。



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「人と距離近くなるの、苦手なんですか?」


悠真が聞く。



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あすかは少し迷う。



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「……苦手というか」


言葉を探す。



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「近くなりすぎると、壊れる気がして」



---


正直な言葉だった。



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悠真は少しだけ黙る。



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「壊れる前にやめる感じ?」


「そう、かもしれないです」



---


その会話は静かだった。


でも、深い場所に触れている気がした。



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悠真は少し笑う。


「俺も似てるかも」



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その言葉が、少しだけ救いになる。



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同じではない。


でも似ている。



---


それだけで、人は少し安心する。



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時間が過ぎる。


雨の音が強くなる。



---


店の中は変わらず静かだ。


でも空気だけが少しずつ変わっている。



---


帰り際。


悠真が立ち上がる。


「あすかさん」


「はい」



---


一瞬、間が空く。



---


「また明日も来ます」



---


その言葉に、あすかの胸が小さく動く。



---


“また明日”



---


それは、今までの「また来ます」とは違う重さだった。



---


あすかは少しだけ迷ってから答える。



---


「……私も」



---


扉が閉まる。


カラン。



---


雨音が店に戻る。



---


マスターが静かに言う。


「少し速いね」



---


あすかは顔を上げる。


「何がですか」



---


マスターはそれ以上言わない。


ただグラスを拭き続ける。



---


その沈黙が、少しだけ怖かった。



---


外に出る。


雨はまだ降っている。



---


あすかは思う。



---


人と人の距離は、気づいたときにはもう戻れない場所まで進んでいることがある。



---


そして今、自分はその“戻れない速度”の中にいるのかもしれない、と。

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