第5話 失いたくないもの
人は大切なものができたとき、
初めて失うことを恐れる。
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それは弱さかもしれない。
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でも同時に、
誰かを本当に大切に思い始めた証でもある。
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二月上旬。
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立春を過ぎても、
風はまだ冷たかった。
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あすかは仕事を終え、
「人生の交差点」のカウンターに立っていた。
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グラスを磨く。
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いつもの仕事。
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いつもの夜。
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しかし最近は少し違う。
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時計を見る回数が増えた。
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扉の音に敏感になった。
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理由は分かっている。
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カラン。
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扉が開く。
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あすかは反射的に顔を上げる。
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違う客だった。
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少しだけ胸が静かになる。
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自分でも苦笑したくなる。
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何を期待しているのだろう。
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そんなことを考えていると、
再び扉が開く。
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カラン。
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今度は朝比奈だった。
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その瞬間。
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胸の奥がふわりと軽くなる。
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あすかはその感覚を、
もう否定できなかった。
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「こんばんは」
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「こんばんは」
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自然な笑顔。
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自然な声。
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そして自然な安心感。
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朝比奈は席に座る。
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グラスが置かれる。
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しばらく他愛のない会話。
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仕事のこと。
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最近読んだ本のこと。
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寒さのこと。
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そんな話をしているだけなのに、
時間はあっという間に過ぎる。
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しかしその夜。
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朝比奈がふと口にした言葉が、
あすかの心を揺らした。
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「来週、出張なんです」
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あすかの手が少し止まる。
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「出張ですか」
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「はい」
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朝比奈はうなずく。
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「一週間くらい」
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たった一週間。
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本当なら短い。
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以前の自分なら何とも思わなかった。
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でも今は違う。
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一週間。
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会えない。
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その事実が、
思った以上に大きく感じる。
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あすかは平静を装う。
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「大変ですね」
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「そうなんです」
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朝比奈は少し困ったように笑う。
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「僕もあまり行きたくないんですけど」
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その言葉に、
少しだけ救われる自分がいた。
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朝比奈も、
会えなくなることを残念に思っているのだろうか。
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そんな期待が胸をよぎる。
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沈黙。
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しかし今日は少し違う。
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穏やかだけれど、
どこか寂しさが混じっている。
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朝比奈が言う。
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「帰ったら、また来ます」
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その言葉は何気ない。
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でも、
あすかの胸に深く残る。
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また来ます。
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当然のようでいて、
約束に近い言葉。
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あすかは静かにうなずく。
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「待っています」
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自然に出た言葉だった。
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朝比奈は少しだけ驚く。
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そして嬉しそうに笑う。
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「ありがとうございます」
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その笑顔を見る。
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そして気づく。
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会えなくなることが寂しい。
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この人がいない時間を想像すると、
少しだけ苦しい。
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それは依存ではない。
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昔の自分とは違う。
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一人でも生きていける。
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仕事もある。
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日常もある。
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それでも。
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会いたいと思う人がいる。
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その人との時間を大切に思う。
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それだけだった。
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やがて朝比奈は帰る。
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カラン。
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扉が閉まる。
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静かな店内。
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あすかは扉を見つめる。
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そして、
ようやく認める。
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私はこの人が好きなのかもしれない。
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いや。
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たぶん、
もう好きなんだ。
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その気持ちは、
以前のような激しいものではない。
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燃えるような恋でもない。
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ただ静かに、
確かにそこにある。
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春を待つ灯りのように。
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温かく。
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優しく。
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消えずに残っている。
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あすかは小さく息を吐く。
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店の窓の向こうには、
まだ冬の夜が広がっていた。
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けれど心のどこかでは、
もう春が始まっている気がした。
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(第12章 第6話「離れて気づくこと」へ続く)




