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あすかの幸せについて  作者: こうた
第12章 名前を与える日

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第5話 失いたくないもの

人は大切なものができたとき、


初めて失うことを恐れる。



---


それは弱さかもしれない。



---


でも同時に、


誰かを本当に大切に思い始めた証でもある。



---


二月上旬。



---


立春を過ぎても、


風はまだ冷たかった。



---


あすかは仕事を終え、


「人生の交差点」のカウンターに立っていた。



---


グラスを磨く。



---


いつもの仕事。



---


いつもの夜。



---


しかし最近は少し違う。



---


時計を見る回数が増えた。



---


扉の音に敏感になった。



---


理由は分かっている。



---


カラン。



---


扉が開く。



---


あすかは反射的に顔を上げる。



---


違う客だった。



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少しだけ胸が静かになる。



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自分でも苦笑したくなる。



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何を期待しているのだろう。



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そんなことを考えていると、


再び扉が開く。



---


カラン。



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今度は朝比奈だった。



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その瞬間。



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胸の奥がふわりと軽くなる。



---


あすかはその感覚を、


もう否定できなかった。



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「こんばんは」



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「こんばんは」



---


自然な笑顔。



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自然な声。



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そして自然な安心感。



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朝比奈は席に座る。



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グラスが置かれる。



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しばらく他愛のない会話。



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仕事のこと。



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最近読んだ本のこと。



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寒さのこと。



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そんな話をしているだけなのに、


時間はあっという間に過ぎる。



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しかしその夜。



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朝比奈がふと口にした言葉が、


あすかの心を揺らした。



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「来週、出張なんです」



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あすかの手が少し止まる。



---


「出張ですか」



---


「はい」



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朝比奈はうなずく。



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「一週間くらい」



---


たった一週間。



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本当なら短い。



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以前の自分なら何とも思わなかった。



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でも今は違う。



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一週間。



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会えない。



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その事実が、


思った以上に大きく感じる。



---


あすかは平静を装う。



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「大変ですね」



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「そうなんです」



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朝比奈は少し困ったように笑う。



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「僕もあまり行きたくないんですけど」



---


その言葉に、


少しだけ救われる自分がいた。



---


朝比奈も、


会えなくなることを残念に思っているのだろうか。



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そんな期待が胸をよぎる。



---


沈黙。



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しかし今日は少し違う。



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穏やかだけれど、


どこか寂しさが混じっている。



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朝比奈が言う。



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「帰ったら、また来ます」



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その言葉は何気ない。



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でも、


あすかの胸に深く残る。



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また来ます。



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当然のようでいて、


約束に近い言葉。



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あすかは静かにうなずく。



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「待っています」



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自然に出た言葉だった。



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朝比奈は少しだけ驚く。



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そして嬉しそうに笑う。



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「ありがとうございます」



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その笑顔を見る。



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そして気づく。



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会えなくなることが寂しい。



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この人がいない時間を想像すると、


少しだけ苦しい。



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それは依存ではない。



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昔の自分とは違う。



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一人でも生きていける。



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仕事もある。



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日常もある。



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それでも。



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会いたいと思う人がいる。



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その人との時間を大切に思う。



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それだけだった。



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やがて朝比奈は帰る。



---


カラン。



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扉が閉まる。



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静かな店内。



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あすかは扉を見つめる。



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そして、


ようやく認める。



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私はこの人が好きなのかもしれない。



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いや。



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たぶん、


もう好きなんだ。



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その気持ちは、


以前のような激しいものではない。



---


燃えるような恋でもない。



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ただ静かに、


確かにそこにある。



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春を待つ灯りのように。



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温かく。



---


優しく。



---


消えずに残っている。



---


あすかは小さく息を吐く。



---


店の窓の向こうには、


まだ冬の夜が広がっていた。



---


けれど心のどこかでは、


もう春が始まっている気がした。



---


(第12章 第6話「離れて気づくこと」へ続く)

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