20: 屋根の上
「フィオ」
いつもより、甘く響く低音。
髪をすく手もとても優しい。
その手が耳元に触れ、耳朶を弄る。
「……っん……」
くすぐったくて身をよじると、それはそれは色気たっぷりに微笑む。
「フィオ……」
なんで、こんなに甘く名前を呼ぶかな。
嬉しいのと、切ないのと、困惑するのと、いろんな感情がないまぜになって、反応出来ない。
真っ赤になっているであろう顔を、見られたくないのに。
「……フィオレンツィア……」
熱にうかされたみたいに、何度も私を呼ぶ彼を、まともに見ることが出来ない。
*****
カーライト邸のグリーンの屋根が見えてきた。
と、思ったら、急にシンが立ち止まった。
足元の屋根材がカララッと少しズレる音がする。小さいカケラが地面に落ちる。さっきまでは結構高い建物の屋根を走っていたけど、ここは暗闇でも地面が分かるくらには低い建物だった。
あんなに速くて、全力疾走してると思ってたけど、シンは全く息が乱れてない。
「あー、思ったより早かったな」
「え?」
呟いたシンを見上げると、前方の闇を見つめてる。
一緒になって目を凝らすと、向こう側の家の屋根の上の空間に、キラキラした細かい光が集まり始めた。
お父様が使う、移動魔法だとすぐわかったけど、出てきた人形の輪郭が違う。
「アイツ、不得意魔法ってないの?」
あきれたように呟いてる間にも、その形はハッキリしてきて、姿が現れるより先に声までした。
「フィオを返してもらおう」
「アオイは国に帰る、と言っている。本人の気持ちは無視かな?」
いつもは王子らしく華美な服装をしているレオが、お忍び用なのか庶民的なシャツにベスト、シンプルなズボンという簡素な出で立ちだ。
剣すら佩いていない。
「フィオ、なぜ逃げる?俺が嫌なら俺に言え」
嫌?
嫌とかじゃない。
無理でしょう?
私とレオでは。
陛下が、「忘れろ」と言ったのは、そういうことでしょう?
暗闇の先でも分かった。レオが、泣きそうな切なげな表情でいることを。
「フィオ……。フィオレンツィア。また俺にお前のお茶を入れてくれ……」
「!」
カッと体が熱くなった。
「……よ」
「え?」
シンにも聞こえなかったようで、こちらを見る。
「……大丈夫よ。レオンハルト殿下は、私じゃなくても、お茶を飲めるわ」
吹っ飛ばされる前に見たレオは、表情が抜け落ちていたように思う。
シンが風魔法をレオに放った。
屋根から転がるように落ちて行った彼の名前を呼びそうになる。
体が勝手に彼を追いそうになる。
その全てをシンに止められた。
「タカユキ!」
シンが叫ぶ前に、先ほどまでレオがいた屋根にお父様が現れた。
「やれやれ、まさか上から登場とは思わなかったよ」
ヒョイっと身軽にこちらの屋根に来たお父様は、私を見ていつになく真剣な顔で言った。
「アオイ、いいんだね。今回は「突然去る日」とは別だよ。もう1度聞くよ?国に帰るかい?」
「帰る……。お父様、お願い……」
涙で、お父様が困ったように微笑んでるのがぼやけていく。
「フィオ、行くな!」
下からレオの声がする。
「シン、私は1人しか運べないよ」
「わかっています。まずはアオイを。私は……、どうにかします」
レオの声を無視して、シンは私をお父様の方へ押しやった。
「アオイ、後で里で会おう。その時はちゃんと求婚の文を送るから、受け取って?」
華旺国では求婚の時、文を送る慣習がある。昔は詩だったらしいが、簡素化してなお紙に文字をしたためる、という行為はそのままだ。そこにいかに自分の気持ちを込めるかが求婚を受理されるかどうかの決め手で、文字が美しいのはもちろん、言葉の選び方や内容、更には紙の素材や文に添える花の選定で求婚者の財力や権力まで問われる。今は省略するカップルも多いが、国では伝統として根強く残っているソレを送る、ということは今まで口約束だけだったのとは違い、正式な求婚だ。
「フィオ!!」
下から聞こえてくる声にも、シンの問いかけにも、反応できない。
「殿下の衛兵が来そうだ。そろそろ行くよ」
お父様が私を抱きしめて、周りの空間にキラキラした光が表れ始めた。
無意識に眼下へ目線を向けてしまった。
暗くてもわかる金髪と見上げるペリドットの瞳。
アランとハヤテが今頃やっと追いついたのか、走ってくる。
霞んでいく視界に最後に見えたのは、どこから現れたのかレオを必死に止めようと抱きついているエレオノーラ様だった。




