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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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9/31

 ■第9章:裂け目



 洗濯機の回転音が、静かな部屋の唯一の音だった。

 しかしその音すら、どこか遠くに聞こえる。


 さつきは、ベッドの上から動けずにいた。

 白い天井は、静止したまま押し寄せてくる。

 視界の隅に、息子のパーカーが置かれている。


 袖先には、まだ彼の体温が残っている気がした。

 触れるのが怖かった。

 触れてしまえば、もう二度と温もりが戻らないことを

 認めてしまうからだ。


◆


 亮介は、朝食を二人分用意した。

 味噌汁の湯気は、

 まるでこの部屋だけがまだ生きている証拠のようだった。


「……さつき、食べよう」


 声をかけても返事は来ない。

 扉の向こうの沈黙は、深い海底のようだ。


 亮介は、息を呑んでから告げる。


「大学へ行ってくるよ。

 大丈夫だから。

 一人に……しない」


 しかし、自分でも矛盾に気づく。

 いま彼女は「一人にしないで」と叫んでいるのだ。

 心の奥底で。


 扉の向こうから、かすかな声。


「行けば……?」


 無音より痛い囁き。


「行けばいいじゃない。

 好きにすれば」


 それ以上、亮介は何も言えなかった。


「行ってきます」

「……うん」


 その「うん」は、肯定ではなかった。


◆


 研究室。

 亮介は息子のノートとUSBを手に、教授らと対面した。


「父さん、これ……見てください」


 白石が示したのは、スマホ内部から

 解析途中で断片的に復元された音声データ。


 ファイル名は——

「help_01.m4a」


 亮介の血の気が引いた。


「再生していいですか?」


「……はい」


 ノイズ混じりの声が流れる。


「……誰か、気づいて……

 お願いだから……」


 息子の声だ。

 息の乱れが、震えが、残っている。


「……聞こえてる……?

 父さん……」


 そこで音が途切れた。


 研究室の空気が固まる。


 教授が静かに言う。


「これは……SOSです」


「……やめてくれ」


 亮介は思わず口を押さえた。

 息が溢れ、涙が零れた。


なぜ気づけなかった?


その問いが、鋭く心臓に突き立つ。


◆


「まだ他にもあります。

 ただ、暗号化が強くて……解析に時間が」


「お願いします。

 全部、聞かせてください。

 どんな形でも」


「わかりました」


 白石が深く頷いた。


 亮介は、泣きながらも立ち上がろうとする。

 自分が倒れるわけにはいかない。


 息子の苦しみも、希望も、

 最後まで見届ける。


 そのとき、スマホが震えた。


さつきからの着信。


「……もしもし」

『あのね……』


 声は小さく掠れている。

 無理に絞り出したような声。


『味が、しないの』


 亮介は一瞬言葉を失った。


『お味噌汁の……味がしない。

 何も……感じないの』


「すぐ帰る」

『いい。帰らないで』


「いや、帰る。帰るよ」


『帰らないで……。

 あなた、息子のことばっかり』


 通信が途切れた。


◆


 亮介は研究室を飛び出した。

 エレベーターを待てず、階段を駆け下りる。


 春の風が、頬を切った。

 息が荒い。

 走りながら、思った。


 ——誰が一番苦しんでいるのか。


 答えは、知っていた。


◆


 玄関を開けると、

 キッチンの床に破片が散乱していた。


 皿。

 コップ。

 なにもかも割れていた。


 さつきが、震える手で残った皿を

 さらに割ろうとしている。


「さつき……!」


「触らないで!」


 振り返った瞳には、

 理性の光がほとんど残っていなかった。


「どうして途中で電話切るのよ!

 どうして私が壊れていくのを見ないのよ!」


「見てる。ずっと見てる」


「ならどうして助けてくれないの!

 悠人を救えなかったみたいに、

 私のことも見捨てるの!?」


 亮介は、彼女の腕を掴み、

 割れ物の山から引き離した。


「見捨てない。絶対に」


「嘘!

 あなたは息子の研究に逃げてる!

 私と違って……

 前を向けてるから!」


 その言葉は、

 矢のように亮介の胸を貫いた。


「前なんて向けてない。

 ただ……息子の未来を拾おうとしてるだけだ」


「そんな未来、私には見たくない!」


 さつきは泣き崩れた。

 嗚咽が、壊れた食器よりも深く響く。


「私は……息子の今しか見れないの。

 息子が生きていた今に……

 置いていかれたくないの……」


 その声は、骨が軋む音のように痛かった。


◆


 亮介は、そっと彼女を抱きしめた。

 震える体が、腕の中で細かく揺れている。


「一人にしないで……」

 さつきが泣きながら言った。


 亮介の胸が締め付けられた。


「一番助けを求めてたのは……

 悠人じゃなくて……」


「そう。

 あなたなんだ」


 亮介は、彼女の背に手を置いた。


「気づけなくてごめん。

 本当に……ごめん」


 謝罪の言葉は、

 彼女の頬を濡らす涙に溶けていった。


◆


 夜。

 ベッドの脇には、息子のパーカー。

 二人は少し距離をあけて横になっていた。


 天井を見つめながら、

 亮介は静かに息を吐いた。


「SOSは、息子だけじゃなかった」


 その事実は、

 二重の痛みだった。


 しかし同時に、

 父が救うべき未来が

 ひとつではないことの証でもあった。


 息子が残した技術が、

 もし誰かを救う未来へつながるなら——


 まず救うべきは、この家だ。


「明日も……一緒に生きよう」


 声に出してみる。

 返事はなかった。

 けれど、彼女の肩の震えが

 ほんの少しだけ収まった気がした。


 暗闇の中で、

 二人はまだ別々の方向を向いている。

 だが、同じ落下の途中にいた。


 その溝は深く、

 光はまだ遠い。


 けれど、溝の底に——

 確かな絆の糸がまだ残っている。


第9章 完


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