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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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10/31

■第10章:復元—「消えた声が示したもの」




 夜明けの気配は、いつもより遅れて訪れた。

 団地の窓に薄い灰色が流れ込むその前に、亮介は既に目を開けていた。


 寝室の隅で、さつきは背を向けたまま丸くなっている。

 布団の形が小さく見えた。


「さつき」


 そっと呼ぶと、微かな肩の震えが返ってきた。

 しかし、それ以上は何もない。


 亮介は、そっと扉を閉め、キッチンへ向かった。


 味噌汁を温め直しながら、

 携帯に目を落とすと、白石からの未読メッセージがあった。


“help_02 ほぼ復元。

聞く準備ができたら教えてください”


 父は深く呼吸を整えた。


聞く準備。


 その言葉が、胸の奥で重く響いた。


◆


朝食をテーブルに置くと、

さつきはやっと体を起こした。

しかし椅子には座らず、立ったままだった。


「味……しないかもしれないけど」


「……ありがとう」


 か細い声。

 わずかな礼。

 その両方が、消え入りそうだった。


 亮介は大学へ向かう支度をしながら、

 靴擦れのように痛む言葉を飲み込んだ。


「すぐ戻る。

 お昼には帰るから」


「行けばいいじゃない」


「さつき……」


「行けば?」


 まなざしは、

 悲しみで濁りながら、鋭く尖っていた。


 亮介は、それ以上言えなかった。


◆


 研究室の空気は明るい蛍光灯に満ちている。

 それなのに、その光がいつもより冷たかった。


「お父さん……これが今の進捗です」


 白石がPCを指差した。


 画面には、息子の脳波データと、

 解析途中の音声波形が並ぶ。


「再生しますか?」


 問いかけは穏やかだった。

 だが、その穏やかさが余計に心を締めつける。


「……すまない。もう少し……時間をくれないか」


「もちろん」


 白石は、理解したように一度だけ強く頷いた。


◆


 父は研究ノートを手に、廊下の窓際へ移動した。


 春の陽光は外を明るくしている。

 人々は動いている。

 未来へ進んでいる。


 なのに、自分の時間は止まっている。

 止まったまま、息子の痕跡だけを手繰っている。


 ノートの端にある息子の走り書き。


「未来の速度が、人に合えばいい」


 この一行が、

 一度失われた息を、ゆっくりと呼び戻していく。


「……お前は諦めなかったんだな」


 その言葉を、

 誰に向けて発したのか分からない。


◆


 そのとき、スマホが震えた。


さつきからのメッセージ。


「不安。

早く帰ってきて」


 文字が、震えを持って届いたように見えた。


 胸の奥に冷たい指が触れる。


「白石、今日は戻る。また連絡する」


「お母さん……ですか?」


「ああ……」


「行ってください。

 ご家族が最優先です」


 白石の表情は、とても静かだった。


◆


 家に戻ると、

 玄関が半開きになっていた。


「……さつき?」


 呼んでも返事がない。

 キッチンにも、リビングにも姿がない。


 洗面所で、水の音がする。

 扉を開けると——

 浴槽の中に、さつきが服を着たまま、膝を抱えて座っていた。


 ぬるい水が、ゆっくりと彼女を沈めていく。


「さつきっ!!」


 亮介は迷いなく駆け寄って抱き起こした。


「触らないで……」

「触る。絶対に」


「放っておいて……」

「放っておけるわけないだろ」


 さつきは、父の胸を弱く叩いた。


「ごめんね……

 どうしていいか分からなくて……」


 その声は、

 もう限界の音だった。


「分からなくていい。

 生きていてくれれば……それでいい」


 浴槽から出て、バスタオルで包む。

 彼女の体は、氷のようだった。


◆


 リビングに戻り、

 彼女をソファに座らせ、毛布をかける。


「一度、病院に——」


「やだ」


 即答だった。


「薬飲んだらね……

 息子のこと、忘れちゃいそうで怖いの」


 その恐怖は、余りにも正しい。

 だからこそ、残酷だった。


「忘れない。

 薬を飲んでも、忘れない。

 俺たちが忘れない限り、悠人は生きてる」


「ほんとに……?」


「ほんとだ」


 その言葉には、

 父の祈りがすべて含まれていた。


◆


 さつきが眠りにつくと、

 亮介は机に向かった。


 スマホをUSBケーブルで繋ぐ。

 画面には解析ソフトが開かれている。


 白石からのメッセージが再び届いていた。


「help_02 95%復元

help_03 一部復元

聞くなら、今です」


 亮介は一度だけ深呼吸をした。

 胸が痛いほど膨らむ。


聞いたら、戻れない。


 その理解を抱えたまま、

 再生ボタンを押した。


◆


 ——深い呼吸。


「……父さん。

 今度は、ちゃんと聞いてね」


 息子の声だ。

 誰がなんと言おうと、息子の声。


「俺……生きたかった。

 ちゃんと、未来に行きたかった。

 だから、この研究……

 止めたくなかった」


 喉の奥で言葉が絡まり、

 それでも必死に続けようとする声。


「でも……

 追いつけなかった」


 数秒の無音。

 そして。


「父さん。

 ありがとう。

 生まれてきてよかったって……

 思わせてくれたから」


 音声はそこで途切れた。

 しかし、心には続きが聞こえる気がした。


「大好きだよ、父さん」


 亮介は息を押し殺した。

 涙が頬を伝い、落ちた。


「……生きたかったんだな」


 父の声は震えていた。

 震えながらも、確かだった。


「お前は、自分を捨てたんじゃない。

 未来を……信じてたんだな」


 その理解が、

 父の胸の底で静かに灯った光を

 少しだけ強くした。


◆


 再生ウィンドウに、新しい通知が入る。


「help_03 一部再生可能」


 亮介はそっと手を伸ばした。

 だが、再生は押さなかった。


「今日はここまでにしよう」


 それは逃避ではなかった。

 守るための選択だった。


 リビングのソファで眠る妻の側へ戻る。

 彼女の呼吸が、

 今は何よりの証だった。


「救わなきゃいけない未来は……

 ふたつあるんだな」


 息子と——

 妻の未来。


◆


 団地の窓の外に、

 夜がゆっくり明けていく。


 今日も、時間は進む。

 未来は進む。


 亮介は静かに呟く。


「俺が……速度を合わせる」


 それは、父の生き直しの宣言だった。


第10章 完


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