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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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8/31

 ■第8章:研究ノートの証言


—「息子の強さ」


 朝の光が、遮光カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

 息子がいなくなってから、亮介は朝が怖かった。

 日付が更新されるたび、息子の未来だけが1日ずつ遅れていくように思えた。


 しかし、その朝は、ほんの少しだけ違った。

 亮介は起き上がり、机の上の研究ノートを静かに開いた。


◆


 見慣れてきたはずの文字列。

 けれど、読み返すたび、息子の輪郭が濃くなる。


 数式の意味も、専門用語の意図も、

 まだ完全には分からない。

 しかし、分かるものがあった。


 ——意志だ。


 息子が苦しみの淵でなお、

 誰かのために未来を描こうとしていた意志。


 ページの端に、薄く書かれたメモが視界に留まる。


「父さんにも分かるように」


 亮介は指先でさらりと撫でた。

 涙腺が、ささやかな圧をかけてくる。


「……分かる。絶対に分かる」


 決意ではなく、願いでもない。

 約束だった。


◆


 その日、大学から連絡が入った。

 白石が、研究室に来てほしいと言う。


 到着すると、白石と教授、院生数人が集まっていた。


「父さん、これ見てください」


 ホワイトボードには、悠人の研究の

 目的と理論の再構成が描かれていた。


 学生たちが、息子の技術思想を読み解きながら

 自分たちなりの言葉で補っていく。


「集中維持と脳波フィードバックは補助的な…」

「環境ストレス指数をリアルタイムに判定して、過負荷を回避…」


「つまり、“やりすぎない技術”なんです」


 白石がそう言った。


「誰もが『普通』にできるようになる技術じゃない。

 できなくても、生きやすいようにする技術です」


 亮介は息を呑んだ。


 息子は——


弱さを切り捨てる世界で、弱さを肯定する未来を作ろうとしていた。


 教授が言葉を継ぐ。


「特性がある人ほど、社会の速度に置いていかれる。

 だから、未来の速度を人間に合わせるべきだという思想です」


 亮介はゆっくり首を縦に振った。

 息子は、世界を責めなかった。

 ただ、世界を少し優しくしようとした。


◆


 そのとき、白石が躊躇いがちにUSBを差し出した。


「悠人さんのスマホから、ひとつだけ復元できました。

 解析中のデータの断片です」


 亮介は手に受け取った。

 USBは小さく、頼りなく、しかし重かった。


 研究室の端のPCで再生する。

 画面いっぱいに、波形が現れた。


悠人の脳波データ。


「ストレス指数が上振れしてる。

 これは、最後の週……?」


 白石の声が震える。


 波形の山が異常に尖り、

 中脳領域のスパイクが雪崩のように連なっていた。


「こんな状態で……研究してたのか」


 亮介は椅子を握りしめた。

 拳が白くなる。


 波形の横に、小さな文字が添えられていた。


「まだできる

まだ間に合う

まだ…」


 最後の一語は滲んでいて読めなかった。

 しかし、亮介には分かった。


「まだ生きられる」

そう自分に言い聞かせていたのだ。


◆


 画面が暗転する。

 別のファイルが自動再生された。


 エラーだらけの動画。

 ノイズの向こう側に、息を整えようとする

 必死な声がかすかに残っていた。


「……大丈夫、まだいける……

 信じてる、未来……

 ああ、また迷惑かけた……ごめ……」


 再生が止まる。


「ごめん」

 その一言だけが、耳に残った。


 父に対してか。

 世界に対してか。

 それとも、自分にか。


 亮介は、ただ静かに目を閉じた。


◆


 教授が柔らかい声で言う。


「息子さんは、本当に優しい人だったんですね」


「……ええ、優しかった。

 とても」


「だからこそ、脆かった。

 ——優しさは、脆さと紙一重です」


「……分かります」


 亮介は、ノートをそっと抱えた。


 息子の苦しみを、まだすべては理解できない。

 だが、息子の強さは痛いほど伝わった。


◆


 帰り道、団地へと続く階段。

 夕方の空が、オレンジから青へと移り変わる。


 亮介は思った。


 息子は、

 自分の弱さを恥ではなく技術に変えたのだ。


 それは、誰にでもできることではない。


「さつきにも……伝えないと」


 亮介は、自宅の扉を開けた。


 しかし、玄関から奥へ伸びる暗い空気。

 居間には、また誰もいない。


「……さつき?」


 返事はなかった。

 寝室の扉は閉ざされている。


 亮介は、扉の前で言葉を探した。


「悠人は……

 誰かのために、生きようとしてた」


 伝えたいのに、伝わらない。

 扉の向こうの沈黙は、深い穴のようだった。


◆


 夜。


 机の上に広げたノートの余白に、

 亮介はそっと鉛筆を置いた。


 息子の文字の横に、

 父の文字が添えられる。


 すべて丁寧に、震えながら。


「まだ間に合う」


 息子が残した言葉を、父が引き継ぐ。


 未来に遅れるのではない。

 未来に追いつくのでもない。


未来を、息子の速度に合わせ直すための文字だ。


「悠人……」

「父さんが続ける」


 灯りを小さく絞る。

 ページが静かに息をしている。


 これが、父の

 最初の一歩だった。


第8章 完


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