■第9章:裂け目
洗濯機の回転音が、静かな部屋の唯一の音だった。
しかしその音すら、どこか遠くに聞こえる。
さつきは、ベッドの上から動けずにいた。
白い天井は、静止したまま押し寄せてくる。
視界の隅に、息子のパーカーが置かれている。
袖先には、まだ彼の体温が残っている気がした。
触れるのが怖かった。
触れてしまえば、もう二度と温もりが戻らないことを
認めてしまうからだ。
◆
亮介は、朝食を二人分用意した。
味噌汁の湯気は、
まるでこの部屋だけがまだ生きている証拠のようだった。
「……さつき、食べよう」
声をかけても返事は来ない。
扉の向こうの沈黙は、深い海底のようだ。
亮介は、息を呑んでから告げる。
「大学へ行ってくるよ。
大丈夫だから。
一人に……しない」
しかし、自分でも矛盾に気づく。
いま彼女は「一人にしないで」と叫んでいるのだ。
心の奥底で。
扉の向こうから、かすかな声。
「行けば……?」
無音より痛い囁き。
「行けばいいじゃない。
好きにすれば」
それ以上、亮介は何も言えなかった。
「行ってきます」
「……うん」
その「うん」は、肯定ではなかった。
◆
研究室。
亮介は息子のノートとUSBを手に、教授らと対面した。
「父さん、これ……見てください」
白石が示したのは、スマホ内部から
解析途中で断片的に復元された音声データ。
ファイル名は——
「help_01.m4a」
亮介の血の気が引いた。
「再生していいですか?」
「……はい」
ノイズ混じりの声が流れる。
「……誰か、気づいて……
お願いだから……」
息子の声だ。
息の乱れが、震えが、残っている。
「……聞こえてる……?
父さん……」
そこで音が途切れた。
研究室の空気が固まる。
教授が静かに言う。
「これは……SOSです」
「……やめてくれ」
亮介は思わず口を押さえた。
息が溢れ、涙が零れた。
なぜ気づけなかった?
その問いが、鋭く心臓に突き立つ。
◆
「まだ他にもあります。
ただ、暗号化が強くて……解析に時間が」
「お願いします。
全部、聞かせてください。
どんな形でも」
「わかりました」
白石が深く頷いた。
亮介は、泣きながらも立ち上がろうとする。
自分が倒れるわけにはいかない。
息子の苦しみも、希望も、
最後まで見届ける。
そのとき、スマホが震えた。
さつきからの着信。
「……もしもし」
『あのね……』
声は小さく掠れている。
無理に絞り出したような声。
『味が、しないの』
亮介は一瞬言葉を失った。
『お味噌汁の……味がしない。
何も……感じないの』
「すぐ帰る」
『いい。帰らないで』
「いや、帰る。帰るよ」
『帰らないで……。
あなた、息子のことばっかり』
通信が途切れた。
◆
亮介は研究室を飛び出した。
エレベーターを待てず、階段を駆け下りる。
春の風が、頬を切った。
息が荒い。
走りながら、思った。
——誰が一番苦しんでいるのか。
答えは、知っていた。
◆
玄関を開けると、
キッチンの床に破片が散乱していた。
皿。
コップ。
なにもかも割れていた。
さつきが、震える手で残った皿を
さらに割ろうとしている。
「さつき……!」
「触らないで!」
振り返った瞳には、
理性の光がほとんど残っていなかった。
「どうして途中で電話切るのよ!
どうして私が壊れていくのを見ないのよ!」
「見てる。ずっと見てる」
「ならどうして助けてくれないの!
悠人を救えなかったみたいに、
私のことも見捨てるの!?」
亮介は、彼女の腕を掴み、
割れ物の山から引き離した。
「見捨てない。絶対に」
「嘘!
あなたは息子の研究に逃げてる!
私と違って……
前を向けてるから!」
その言葉は、
矢のように亮介の胸を貫いた。
「前なんて向けてない。
ただ……息子の未来を拾おうとしてるだけだ」
「そんな未来、私には見たくない!」
さつきは泣き崩れた。
嗚咽が、壊れた食器よりも深く響く。
「私は……息子の今しか見れないの。
息子が生きていた今に……
置いていかれたくないの……」
その声は、骨が軋む音のように痛かった。
◆
亮介は、そっと彼女を抱きしめた。
震える体が、腕の中で細かく揺れている。
「一人にしないで……」
さつきが泣きながら言った。
亮介の胸が締め付けられた。
「一番助けを求めてたのは……
悠人じゃなくて……」
「そう。
あなたなんだ」
亮介は、彼女の背に手を置いた。
「気づけなくてごめん。
本当に……ごめん」
謝罪の言葉は、
彼女の頬を濡らす涙に溶けていった。
◆
夜。
ベッドの脇には、息子のパーカー。
二人は少し距離をあけて横になっていた。
天井を見つめながら、
亮介は静かに息を吐いた。
「SOSは、息子だけじゃなかった」
その事実は、
二重の痛みだった。
しかし同時に、
父が救うべき未来が
ひとつではないことの証でもあった。
息子が残した技術が、
もし誰かを救う未来へつながるなら——
まず救うべきは、この家だ。
「明日も……一緒に生きよう」
声に出してみる。
返事はなかった。
けれど、彼女の肩の震えが
ほんの少しだけ収まった気がした。
暗闇の中で、
二人はまだ別々の方向を向いている。
だが、同じ落下の途中にいた。
その溝は深く、
光はまだ遠い。
けれど、溝の底に——
確かな絆の糸がまだ残っている。
第9章 完




