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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
9/31

 ■第9章:裂け目



 洗濯機の回転音が、静かな部屋の唯一の音だった。

 しかしその音すら、どこか遠くに聞こえる。


 さつきは、ベッドの上から動けずにいた。

 白い天井は、静止したまま押し寄せてくる。

 視界の隅に、息子のパーカーが置かれている。


 袖先には、まだ彼の体温が残っている気がした。

 触れるのが怖かった。

 触れてしまえば、もう二度と温もりが戻らないことを

 認めてしまうからだ。



 亮介は、朝食を二人分用意した。

 味噌汁の湯気は、

 まるでこの部屋だけがまだ生きている証拠のようだった。


「……さつき、食べよう」


 声をかけても返事は来ない。

 扉の向こうの沈黙は、深い海底のようだ。


 亮介は、息を呑んでから告げる。


「大学へ行ってくるよ。

 大丈夫だから。

 一人に……しない」


 しかし、自分でも矛盾に気づく。

 いま彼女は「一人にしないで」と叫んでいるのだ。

 心の奥底で。


 扉の向こうから、かすかな声。


「行けば……?」


 無音より痛い囁き。


「行けばいいじゃない。

 好きにすれば」


 それ以上、亮介は何も言えなかった。


「行ってきます」

「……うん」


 その「うん」は、肯定ではなかった。



 研究室。

 亮介は息子のノートとUSBを手に、教授らと対面した。


「父さん、これ……見てください」


 白石が示したのは、スマホ内部から

 解析途中で断片的に復元された音声データ。


 ファイル名は——

「help_01.m4a」


 亮介の血の気が引いた。


「再生していいですか?」


「……はい」


 ノイズ混じりの声が流れる。


「……誰か、気づいて……

 お願いだから……」


 息子の声だ。

 息の乱れが、震えが、残っている。


「……聞こえてる……?

 父さん……」


 そこで音が途切れた。


 研究室の空気が固まる。


 教授が静かに言う。


「これは……SOSです」


「……やめてくれ」


 亮介は思わず口を押さえた。

 息が溢れ、涙が零れた。


なぜ気づけなかった?


その問いが、鋭く心臓に突き立つ。



「まだ他にもあります。

 ただ、暗号化が強くて……解析に時間が」


「お願いします。

 全部、聞かせてください。

 どんな形でも」


「わかりました」


 白石が深く頷いた。


 亮介は、泣きながらも立ち上がろうとする。

 自分が倒れるわけにはいかない。


 息子の苦しみも、希望も、

 最後まで見届ける。


 そのとき、スマホが震えた。


さつきからの着信。


「……もしもし」

『あのね……』


 声は小さく掠れている。

 無理に絞り出したような声。


『味が、しないの』


 亮介は一瞬言葉を失った。


『お味噌汁の……味がしない。

 何も……感じないの』


「すぐ帰る」

『いい。帰らないで』


「いや、帰る。帰るよ」


『帰らないで……。

 あなた、息子のことばっかり』


 通信が途切れた。



 亮介は研究室を飛び出した。

 エレベーターを待てず、階段を駆け下りる。


 春の風が、頬を切った。

 息が荒い。

 走りながら、思った。


 ——誰が一番苦しんでいるのか。


 答えは、知っていた。



 玄関を開けると、

 キッチンの床に破片が散乱していた。


 皿。

 コップ。

 なにもかも割れていた。


 さつきが、震える手で残った皿を

 さらに割ろうとしている。


「さつき……!」


「触らないで!」


 振り返った瞳には、

 理性の光がほとんど残っていなかった。


「どうして途中で電話切るのよ!

 どうして私が壊れていくのを見ないのよ!」


「見てる。ずっと見てる」


「ならどうして助けてくれないの!

 悠人を救えなかったみたいに、

 私のことも見捨てるの!?」


 亮介は、彼女の腕を掴み、

 割れ物の山から引き離した。


「見捨てない。絶対に」


「嘘!

 あなたは息子の研究に逃げてる!

 私と違って……

 前を向けてるから!」


 その言葉は、

 矢のように亮介の胸を貫いた。


「前なんて向けてない。

 ただ……息子の未来を拾おうとしてるだけだ」


「そんな未来、私には見たくない!」


 さつきは泣き崩れた。

 嗚咽が、壊れた食器よりも深く響く。


「私は……息子の今しか見れないの。

 息子が生きていた今に……

 置いていかれたくないの……」


 その声は、骨が軋む音のように痛かった。



 亮介は、そっと彼女を抱きしめた。

 震える体が、腕の中で細かく揺れている。


「一人にしないで……」

 さつきが泣きながら言った。


 亮介の胸が締め付けられた。


「一番助けを求めてたのは……

 悠人じゃなくて……」


「そう。

 あなたなんだ」


 亮介は、彼女の背に手を置いた。


「気づけなくてごめん。

 本当に……ごめん」


 謝罪の言葉は、

 彼女の頬を濡らす涙に溶けていった。



 夜。

 ベッドの脇には、息子のパーカー。

 二人は少し距離をあけて横になっていた。


 天井を見つめながら、

 亮介は静かに息を吐いた。


「SOSは、息子だけじゃなかった」


 その事実は、

 二重の痛みだった。


 しかし同時に、

 父が救うべき未来が

 ひとつではないことの証でもあった。


 息子が残した技術が、

 もし誰かを救う未来へつながるなら——


 まず救うべきは、この家だ。


「明日も……一緒に生きよう」


 声に出してみる。

 返事はなかった。

 けれど、彼女の肩の震えが

 ほんの少しだけ収まった気がした。


 暗闇の中で、

 二人はまだ別々の方向を向いている。

 だが、同じ落下の途中にいた。


 その溝は深く、

 光はまだ遠い。


 けれど、溝の底に——

 確かな絆の糸がまだ残っている。


第9章 完


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