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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
5/31

第5章 残されたデータ —「開かれない心の鍵」



 翌週の月曜日。

 まだ桜は咲いていないのに、

 街には季節だけが正しく巡り始めていた。


 亮介は、大学の研究棟の前に立っていた。

 コンクリートの灰色が、雨上がりの空とよく似ている。


 息子が通っていた道。

 何度も歩いてきたはずなのに、

 今日は景色のすべてが異邦のものに見える。



 研究室に入ると、

 四台のモニターを前に学生たちが忙しなくキーボードを叩いている。


 悠人の同期、白石が振り向いた。


「……佐伯さん。お父さん」


 声が震えている。

 言葉にならない何かを押し込めながら。


「悠人さんの、PCのことです」


 白石は、デスクトップを開いた。

 見慣れたアイコンの中に、

 ひときわ目を引くフォルダがある。


“LIM — Life Inclusive Modulator”

——息子が名付けた、認知補助AIの研究名。


「集中維持と、タスク管理の統合……」

 と教授。


「さらに、脳波フィードバックも。

 負荷のかかり方に応じて、心拍と脳活動を調整する機能が……」


 白石は声を落とした。


「それ、あいつ自身を救うための研究だったんです」


 亮介は言葉が出なかった。

 唇だけが、痛いほど締まる。


「でも……」

「はい」

「救えなかったんですね」


 白石は、返事の代わりに涙をこぼした。


 死の前日まで、

 息子は自己救済の技術を磨き続けていた。



 教授は静かに言葉を継ぐ。


「この研究……息子さんしか全容を理解できていません。

 コードの一部が暗号化されている」


「暗号……?」


「医療倫理と利用者の安全性のためでしょう。

 ただ、彼が残した痕跡のどれかに鍵があるはずです」


 亮介は、息子の机の前に座った。

 椅子はまだ、温もりが残っている気がする。


 引き出しに、スマホが一つ。


 見覚えのある黒いケース。

 手に取ると、細いクラックが走っていた。

 きっと、あの夜。

 床に落としたのだろう。


画面ロック。


「……開けます」


 白石が、慎重に言った。


「大学では解析できません。

 でも、知り合いに、少し腕の立つ……」


「お願いします」


 亮介は即答していた。


「何か……残っている気がして」


 その気配だけが、

 彼をまだ立たせている。



 帰り道、亮介は、

 研究フォルダの中にあった一つのファイルのことを思い返していた。


 ——Mentor_Mode.mov


 短い動画。

 再生するかどうか迷った。

 しかし指が動いた。


 画面に映ったのは、息子の後ろ姿。

 部屋で、机に向かっている。


 画面越しに、

 ひとつ息を吸う音。


「……父さん。

 もし、これを見ていたら、ごめん」


 亮介の心臓が止まった。


「俺、大丈夫って言ったけど、

 本当は、大丈夫じゃなくなってたみたいだ。

 いつからだろうね。

 たぶん、未来を見る速度が……速すぎたんだと思う」


 息子の肩が、わずかに震える。


「未来が、遠くに行っちゃった」


 画面が暗転した。


 ただ、息子の呼吸音だけが残る。



 亮介はそれ以上再生できなかった。

 画面を閉じると、方角を定めるように歩き始めた。


 病院へ向かった。


 自分の職場。

 本来なら、命を救う場所。


 受付で、顔見知りの看護師が目を見開いた。


「佐伯さん……?」


「当直の知り合いに……少し、話を」


 言葉が詰まる。

 けれど、追い詰められた心は選ばない。



 精神科外来の医師は、

 亮介の話を黙って聞いていた。


「息子さんは……

 おそらく崩壊型の自死だったのでしょう」


「崩壊型……」


「計画的ではなく、

 ある瞬間、急に力尽きるように起こります。

 だから、止められなかったことに意味はない」


「意味……」


「止められる自死なら、人は死にません」


 その言葉は、優しさだった。

 しかし、

 父にとっては残酷だった。


「……でも私は……間に合いたかった」


 亮介は唇を噛み、

 目を閉じて息を吐いた。


「息子のことを、知りたいんです。

 なぜ死んだのか。

 どうして……自分を救えなかったのか」


 医師の日記にペンが走る音が

 静かに響く。


「ご自身が壊れてしまう前に——

 一緒に考えていきましょう」


 医師は言った。

 亮介は小さく頷いた。



 夜。


 部屋に戻ると、

 研究ノートをひらく。


 その紙の上に、

 息子の思考が眠っている。


 一行、一行。

 父は息子の未来をなぞる。


 そして、最後のページの破り跡に触れたとき——

 気づいた。


接着剤の微かな匂い。

 剥がされたのではない。

 貼られていた何かが、取られたのだ。


未来を示す目印。

大切なサイン。

父の名前。


「……隠したのか。

 俺を」


 呟きが漏れる。


 なぜ隠した?

 なぜ、消した?


 誰に、何を、残したかった?


 ——答えはまだロックされたまま。


★小さな通知音。

 白石からのメッセージ。


スマホ、解析してくれる人に渡します

信頼できる人です


 亮介は深く息を吸った。


「悠人……

 父さんが必ず開ける」


 声は静かで、弱く、

 だが確かな芯があった。


 閉ざされた心の鍵を、

 探しに行く覚悟が

 ようやく形を持った瞬間だった。


第5章 完


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