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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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4/31

■第4章:父の心理破綻


 窓の外で、春の雨が静かに降っている。

 雲は低く、時間の輪郭を曖昧にしていた。


 亮介は、ソファにもたれたまま、

 ただ天井を見つめていた。

 天井は変わらない。

 息子の死が、この家の空気を塗り替えてしまっても。


 葬儀から三日。

 眠っていないようで、眠っている。

 夢と現実の境が崩れ、どちらで息子に会ったのかわからない。


 夜になると、

 襖越しに聞こえた嗚咽が、

 何度でも蘇る。


「……ここにいたのに」


 あの日の距離は、わずか一枚の襖だった。

 それなのに、その一枚が越えられなかった。


◆


 病院に行くと、精神科医が丁寧に言った。


「急性ストレス反応です。

 悪夢、フラッシュバック、眠れない、食べられない……

 すべて自然なことです」


 自然。

 この痛みが、自然。


「ご自身を責めるのは、もっと先にしていい」


 もっと先?

 今、責めないでどうする。

 息子は死んだのだから。


 亮介は、うなだれた視線の中で、

 医師の言葉だけが静かに沈んでいくのを感じた。


◆


 帰りのバスで、

 亮介はスマホを開いた。

 通知は山積みだが、息子からのものはない。


 息子のスマホは、まだロックされたままだ。


 解除できない画面を思い出すたび、

 息子の心に触れることを拒まれたような感覚に襲われる。


 その苦痛に、言葉は追いつかない。


◆


 大学の研究室から連絡が入ったのは、夕方だった。


「佐伯悠人さんの、ご研究の件で……。

 少しお話できればと」


 亮介は翌日、大学を訪れた。


 研究棟の廊下には、学生たちの笑い声が満ちていた。

 誰も、息子の死を知らない。

 その無邪気さがまぶしいほど、

 亮介の世界は暗かった。


「……失礼します」


 白衣の教授が迎えた。

 黒縁の眼鏡の奥に、慎重な哀しみが見える。


「息子さんは、才能がありました。

 あのアルゴリズムは、誰も真似できません」


「……そうですか」


 誇りより先に、涙が滲む。


「ただ……最近は少し……

 睡眠不足と、焦燥が目立っていました」


「焦燥……」


 亮介の胸がつかまれる。


「彼は、未来を速く見すぎてしまうタイプなんです。

 それは長所であり、時に危険でもある」


「危険……」


「未来を信じられなくなったとき、

 彼は、自分自身を見失う」


 その言葉は、

 亮介の内側の深い痛みに、静かに触れた。


「どうして……私が気付けなかったんでしょうか」


 教授は、少し間を置き、

 息子の机の引き出しを開けた。


 中には、研究ノートが丁寧に重なっている。


「……これを」


 悠人の字。

 速く、斜めで、でも理路整然とした文字。


 ページをめくると、

 “完成の図”が描かれていた。


 その先のページが破られている。


「事故ですか?」

「わかりません。

 ただ……破った跡は、落ち着いた動作のようにも見えます」


「落ち着いた?」


「はい。

 衝動的というよりは、

 “見せたくなかった”痕跡のような」


 亮介の手が止まる。

 口が乾く。


 ——息子は、何を隠したかった?


◆


 帰宅後、亮介は息子の机の前に座った。

 一冊のノートをそっと置く。


「悠人……」


 声に出して呼んでみる。


 返事がないことはわかっているのに、

 その沈黙が、胸の奥で音を立てて割れた。


 視界が滲む。

 涙が机に落ち、静かに染みていく。


◆


 夜。

 亮介はようやく少し眠れた。

 しかし、眠りの中は残酷だった。


——助けて


 声は昨日と変わらず幼い。

 小学生の頃の悠人の声だ。


 水泳の大会で、

 スタート台の上から父を見つけて手を振った、

 あの時の声。


 夢の中で、亮介は走る。

 息子に向かって走る。

 しかし距離が縮まらない。


 無数の襖が立ちはだかり、

 開けようとした瞬間、

 その向こうが深淵に変わる。


 そこで、目が覚めた。


 心臓が、ひどく速い。


「間に合わなかった……」


 その言葉だけが、はっきり口をついて出た。


◆


 キッチンに立つと、

 さつきが冷めた味噌汁を見つめていた。


「全部、終わったのよね……」


「終わってない」


 声が震える。


「俺は……知りたい。

 なぜあの夜、あんなにも静かだったのか。

 なぜ、最後に助けを求めなかったのか」


「亮介さん……」


 父の言葉は、弱さでもある。

 強さでもある。


「スマホ……

 解析してもらえないかな」


 さつきが顔を上げる。


「解析……?」


「中に、答えがある気がする。

 何かが隠れている」


 その声は、まだ細い。

 今にも折れそうな枝のよう。

 でも、確かに支えようと伸びている。


「息子の心は、まだどこかにある」


 父はそう信じようとしていた。


 それは、

 自分を救うための言い訳でもあり、

 息子を救うための願いでもある。


第4章 完

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