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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
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6/31

第6章 研究ノート —「理解の輪郭」



 深夜の2時。

 団地の屋根に、静かに雨が降っていた。

 その音が、まるで時間の代わりに刻まれているようだった。


 亮介は、息子の研究ノートを再び開いていた。

 何度読んでも理解の外側にある難解な数式と、

 一見雑然としているが、確かな導線で結ばれた図。


 “未来を逆算する”

 息子が好んで使っていた言葉。


「その速度で……走り過ぎたんだな」


 呟きは、涙に濡れたページに落ちた。


◆


 朝。

 キッチンの空気は冷え切っていた。


 さつきは、食卓に亮介の分の味噌汁を置き、

 しかし自分の席には座らなかった。

 洗面所へ向かう背中は硬直している。


「さつき——」


「言わないで」


 切断するような声。


「何も言わないで。

 聞きたくない」


 亮介は、言葉を失う。

 昨晩医師と話したこと、研究が進んでいること、

 すべて伝えたかった。

 だが、どんな言葉も棘に変わる。


「あなたは仕事してた。

 息子はひとりで泣いてた。

 私は知らなかった。

 でも、あなたは知ってたのよね?」


「知っていた……けど——」


「なら、どうして」


 彼女の目は涙で濡れ、

 しかしその涙は、亮介を許さない。


「あなたは、あの声を聞いていたのよ。

 襖の向こうで、泣いていた声を」


「……聞いた」


「なのに、助けなかった」


 亮介は椅子の背を掴んだ。

 足元が崩れるような感覚。


「息子は、あなたのすぐそばにいたのに」


 言い返す言葉は、どこにも見つからない。


「私は……どうすればいいの?

 息子がいない世界で……」


 それは叫びではなく、

 音にすらならないほどの、深い嘆きだった。


 亮介は、その声を抱きしめたいと手を伸ばす。

 だが、さつきは振り払う。


 距離は、近いほど遠くなる。


◆


 昼。

 亮介は、研究ノートを抱えて大学へ向かう。


 研究棟の廊下で、白石が待っていた。


「……お父さん」


 白石は努めて明るく言った。


「スマホ、解析の目処が立ってきました。

 暗号化されてて時間かかりますけど」


「ありがとう……」


「こっちが……助けてほしいんです。

 悠人さんの研究、完成させたい」


 白石の指が震える。


「だって……あいつ、本当に優しかった。

 自分が困っても、笑ってごまかして……」


 そして息を詰まらせた。


「だから……なんで死んだのか、私だって知りたい」


 その言葉は、亮介の胸の奥に、

 鋭く、しかし温度を持って届いた。


◆


 教授がノートを受け取り、

丁寧にページをめくる。


「これは……認知科学と脳工学の境界領域だ。

 UCS(Unified Cognitive Scaffold)理論の応用……?」


 専門語が並ぶが、

 亮介は気にしなかった。


「理解できるんですか」

「解読には時間が必要です。

 ただ——」


 教授は、あるページを示した。


 統合失調症、ADHD、うつ病。

 それぞれの認知特性のマッピング。

 そして中央に、一行。


“みんなの脳が、生きやすい未来へ”


 教授は言った。


「ご子息は、自身の苦悩を、

 世界の誰かの希望へ変えようとしていた」


 亮介の視界が滲む。


「だったら……どうして」


 思わず漏らした疑問。


「誰よりも未来を信じていた者が、

 未来を手放すことがあります」


 教授はゆっくりとノートを閉じた。


「そんな心は……壊れやすい」


◆


 帰宅すると、

 家の中は静まり返っていた。


「さつき?」


 返事はない。

 寝室の扉は閉じられたまま。


 亮介は、ためらいながらドアの前に立つ。


「俺は……息子のこと、

 絶対にあきらめない」


 静寂だけが応じる。


 夫婦は、同じ喪失の中で、

 別々の苦しみ方をしていた。


◆


 夜。

 机に広げたノートの文字が、

 徐々に理解の形を持ち始める。


 息子の思考は、

 遠い未来からの伝言のようだ。


「悠人……

 どこまで、一人で行ってしまったんだ」


 亮介は、ページの余白に指を置く。


 その余白だけが、

 息子と父の距離だった。


 数ミリ。

 たったそれだけの空白に、

 すべてが失われた。


 雨がまた降り出す。

 明日が来る音がする。


「必ず、見つける」


 その小さな誓いは、

 静かに息をしていた。


第6章 完


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