▼第3章:社会の冷たい手続き
葬儀が終わった翌日。
春曇りの空は、やけに薄かった。
街の雑踏は、何も知らずに過ぎ去っていく。
ただ一つの命の喪失すら、世界は計算に入れない。
亮介は、役所のロビーの硬い椅子に座っていた。
妻・さつきは横で書類の入った封筒をぎゅっと握りしめている。
「死亡届、こちらで……。あ、大学生の方ですか?
それでしたら、こちらの欄を……」
職員は丁寧だが、異様に手際が良い。
まるで「毎日のことで慣れている」という現実が透けて見える。
朱肉の匂い。
紙がかさりと擦れる音。
亮介の視界が淡く揺らぐ。
この一枚の紙が、息子の**「生きた証の削除指令」**に見えた。
「……お願いします」
口が、勝手に動いた。
印鑑が押された瞬間、
息子の人生が「事務処理」として確定された。
◆
大学へ連絡を入れる。
「ご愁傷様です」
「残念なことです」
「学籍処理につきましては……」
淡々とした説明。
退学の手続き。
貸出機器や学生証の返却。
——言葉がどれも現実から浮いている。
父は言いかけた。
「息子は、研究を……」
「ええ、承知しております。ですが……」
話は遮られる。
息子の名は、書類の中で項目へ変換された。
◆
そして企業からのメール。
件名:弊社面接結果につきまして
本文(定型文):
この度は誠に残念ながら——
亮介は、そこで画面を閉じた。
息子はもう読むことができない。
そして、読むべきだった言葉は届きもしなかった。
◆
夜、リビングの灯りはついたまま。
数日分の時が止まっている。
亮介は、息子の部屋の前に座り込んでいた。
ドアを開ければ、彼の世界がまだそこにある。
だが、同時に「いない」という真実と対面することになる。
迷って、手を伸ばす。
扉は、驚くほど軽く動いた。
部屋の中。
PCは机の上に置かれたまま。
昨日まで見た景色そのまま。
椅子の背に掛かったパーカー。
枕元に置かれたスキー雑誌。
ベッド脇の棚に、小学校のメダル。
「悠人……」
名前を呼んだ声は震えていたが、
返事はない。
当たり前なのに、心が受け入れられない。
◆
PCを起動する。
パスワードは入力済みでログイン状態だった。
デスクトップに、
研究フォルダがそのまま残されている。
亮介は震える手でクリックした。
——未来設計
——集中維持
——親に説明するには
——完成したら見せたい人リスト(空)
そのファイルだけ、中身が消されていた。
父の心臓が凍る。
「俺……入ってたんだろ……そこに……」
消されたのはデータだけではない。
未来から自分が削除されたのだ。
◆
スマホを手に取る。
ロック画面には、面接当日の歩数計が残っていた。
「パスコードは……」
試してみる。
誕生日、家族の記念日、部活番号……すべて失敗。
【Touch ID 不一致】
【パスコードが違います】
拒絶されるたび、
息子との距離が遠ざかる錯覚。
「頼む……教えてくれ……」
声にならない声が漏れる。
だが、画面はただ冷たく光るだけ。
「悠人……おまえ、なんで……」
膝が崩れた。
床に手をついて、呼吸が乱れ始める。
そこへ、さつきが駆け寄った。
「亮介さん……!どうしたの……」
「スマホが……開かない……
悠人の言葉が……届かない……」
父の嗚咽は、言葉にならなかった。
◆
さつきの目の奥に、静かな怒りが宿る。
「どうして、もっと早く気付かなかったの……
あなた、いつも仕事ばかりで……!」
「違う……ちゃんと見てた……理解してた……
一緒に、生きてきたんだ……!」
「だったら、どうして……!」
二人の間に、
張りつめた氷のような感情の裂け目が生まれる。
父は自責に沈み、
母は責任の所在を探し始める。
同じ方向へ向くはずの痛みは、
わずかなずれで、互いを傷つける刃になる。
◆
夜が深まる。
団地の灯りは次々と消えていく。
世界は眠る準備をしている。
亮介は、一人ベランダに立ち、
遠くの大学の方角を見つめた。
「息子は、まだ生きていたんだ……昨日まで」
その言葉は風に溶け、
どこにも届かない。
だが、心の奥底で
非常に微かな火が灯った。
——悠人の未来は、まだ消えていない。
——息子が残した技術が、誰かを救うかもしれない。
——それを証明するまで、終わりにしない。
父の目がわずかに、前を向いた。
その小さな起点が、
次章で訪れる“継承”の始まりとなる。
第3章 完




