■第2章:突発 —「消された行き先」
翌朝。
春の始まりを示す淡い陽光が、レースカーテン越しに差し込んでいた。
佐伯悠人は、布団の中でスマホを握りしめていた。
画面には、面接の不採用通知。
まだ通知音も立てず、静かにそこにあるだけ。
寝返りを打つと、机の上の研究ノートが目に入った。
「認知補助AI — 集中維持アルゴリズム」
彼が大学でずっと取り組んできたもの。
——昨日の自分は、まだ未来を描けていたはずだ。
その確かさが、朝にはもう揺らいでいる。
部屋の外から、母・さつきの声。
「悠人、ごはんできてるよ」
「……いらない」
その返事は、数ヶ月前の彼なら絶対に言わなかった。
朝食は体力温存の源だと、彼は理解していた。
中学でADHDを診断されたあと、父と二人で導き出したルールだ。
水泳。
テニス。
スキー。
キャンプ、器材の整頓、荷物のリスト化。
「できるようにしてきた」。
父も母も、彼が困らないように支えてきた。
支え合って、生きてきた。
なのに今朝、何かが一つだけ壊れた。
◆
亮介は、リビングでコーヒーを温め直しながら、
息子の異変を感じ取っていた。
「昨日の面接、だいぶハードだったんだろう」
独り言のように呟く。
父として、言葉をかけるべきとわかっている。
しかし、息子の誇りを折るような踏み込みが怖い。
いつも理解してきたはずだ。
でも——「今」の理解に遅れている。
さつきが静かに言う。
「今日、大学行くのかしら」
「わからない……少し様子を見よう」
二人の沈黙が、家庭を鈍く包んだ。
◆
昼近くなって、悠人は起き上がった。
目の下に薄い隈。
手足が少し震えている。
机の前に座り、PCを開く。
研究フォルダを開いた瞬間、
父がのちに知ることとなる重要な変化が、
静かに進行していた。
一部のファイルに削除痕。
ページ数不整合。
ノートの付箋が無理矢理剥がされた跡。
「未来」が書かれた部分からだけ。
「……なんでだよ」
自分で消したはずなのに、
自分で壊した痛みが、頭の芯に鋭く刺さる。
未来の速度で走れる脳。
でも未来が止まった瞬間、速度は刃に変わる。
過集中で突っ走ることもできず、
逆算した先が真っ暗になる。
恐怖。
自分の脳に裏切られた恐怖。
◆
午後、亮介は意を決して息子の部屋をノックした。
「悠人、少し話せるか?」
「……あとで」
——あとで。
昨日と同じ。
しかし声が違った。
奥底に、乾いた音。
亮介は、そこで一度引いた。
タイミングを誤れば、全てを壊すと知っている。
だが、同時に理解していた。
“あとで”は、もう来ないかもしれない。
◆
夕食。
皿は三つ並んでいたが、悠人は席に着かなかった。
「寝てるのかしら……」
「いや、起きてる」
父は確信していた。
息子の気配は、眠りから遠い。
むしろ何かを断ち切れるほど冴えている。
「声、かけてみようか」
母が震える手で水を置く。
「うん、行ってくる」
亮介は立ち上がり、息子の部屋前へ歩く。
ドアをノックし、ゆっくり声をかけた。
「悠人。俺はここにいるからな」
その言葉に、返事はなかった。
ただ、沈黙が壁より分厚く横たわる。
最後に聞いた気がする。
声とも呼べない、摩擦音のような囁き。
「……ごめん」
それが、父が聞いた悠人の最期の声だった。
◆
それから数時間後。
急速に流れる救急車の赤い光と、
警察と医療スタッフの手際の良さは、
逆に現実味を奪った。
無音の泣き声を上げたのは母だった。
父は声を失ったまま、ただ立ち尽くす。
「なぜここに、命が、置いていかれた」
父の脳裏に、言葉ではない感覚が刺さる。
全てが遅れて気付く痛み。
PC画面は開かれたまま。
作業途中のコード。
削除されたログ。
残されたノートの空白。
悠人が最後に触れた未来の断片。
「どうして……」
亮介の手が震える。
残酷な現実が突然すぎて、
怒りより先に、理解が追いつかない。
「昨日まで、息子は未来を生きていたんだぞ……」
光が一つ消える音がした。
団地の外に出ると、夜空は風にかき消され、
どこにも星がなかった。
父の時間が、そこで止まった。
◆
後に、亮介はPCの削除ログを調べることになる。
その時、震えながら気づくのだ。
・削除されたのは
「完成したら見せたい人リスト」
というタイトルのメモ
・リストには
——父の名前が一番上にあった
それを自分で消すほど、
息子は追い込まれていた。
父は、自分の心臓を掴まれたように痛む。
なぜ、その時、ドアを開けられなかった。
「全部、間に合わなかった……」
亮介の言葉は、誰にも届かない。
届いてほしかった唯一の相手は、
もうどこにもいない。
第2章 完




