◆ 第8章:決意の夜
——誰も知らない、深海の音
1
夜更け。
家は眠っている。
遼だけが、
静止した時間に取り残されていた。
机の上の教科書は
もうただの重しだ。
開く気力もない。
閉じる気力もない。
(何もできない)
その事実だけが
胸を締め続ける。
2
スマホが震える。
画面に浮かぶ名前。
みさき。
《ねえ、安藤くん
今日、すごく心配だった
話したい》
読めない。
文字の意味が胸を刺す。
(期待を裏切っている)
返信したい。
でも、できない。
「大丈夫」と嘘をつき続ける力すらない。
通知を切った。
光を拒む。
3
部屋の明かりを落とす。
闇が落ちると、
心のざわつきが増幅した。
(僕は、迷惑だ)
小さな囁きが、
徐々に大きな声になる。
(存在が重荷だ)
(全部終わらせたほうがいい)
(楽になれる)
その声は、
理解者のように甘かった。
だが同時に
深海の底へ誘う引力でもあった。
4
ベッドの上で膝を抱える。
暗闇の中、
遼の呼吸は静かすぎる。
「どうでもいい」
と
「助けて」
その二つの声が
体の中でぶつかって
何度も折れていく。
涙は出ない。
涙を流すエネルギーすら
失われていた。
5
廊下の向こうから
母の寝息が微かに聞こえる。
あの人は
明日も遼を呼ぶだろう。
(愛されているのに、
それに応えられない自分が憎い)
手で自分の胸を押さえる。
痛みはない。
逆に怖い。
何も感じなくなることこそ、
終わりの合図だ。
6
スマホの画面を再び開く。
未送信のメッセージが並んでいた。
《ごめん》
《大丈夫って言ったけど、大丈夫じゃない》
《苦しい》
《どうすればいいかわからない》
打ちかけの文字列。
全部消した。
(こんな弱音、見せられない)
再び暗闇。
孤独は
音もなく満ちていく。
7
ゆっくりと視界が暗くなる。
思考が
深海のように静まり返る。
「このまま沈んでしまいたい」
遼は、
誰にも聞かれない声で、
初めてそう呟いた。
その瞬間。
スマホが震えた。
《安藤くん、お願い。
読んで。
あなたが好きです。》
みさきのメッセージ。
時刻は深夜2時。
遼の心臓が
かすかに跳ねた。
深海に
一筋の光が差し込んだ。
8
遼は
その光が眩しすぎて
目をそらした。
けれど。
手首の青いリストバンドが
確かにそこにあることを
指先が覚えていた。
そして
遼の胸の奥で
わずかに温度が戻る。
「……行きたい方へ、行けばいい」
遼は
まだ答えを知らない。
ただ、
光がまだ消えていないことだけが
真実だった。
第8章「決意の夜」完




