◆ 第7章:破綻点
——透明な壁に指先が触れる
1
朝の光が、遼の頬を照らす。
明るい。
なのに、冷たい。
布団の中で、
遼は呼吸の仕方を忘れる。
起きる理由が浮かばない。
スマホのアラームを止める。
その一動作だけで、
心臓が疲れ切ってしまう。
「学校、どうする?」
扉の向こうで母の声。
「行く」
答える声は
別人のように小さかった。
2
大学の正門。
人々の足音が波のように打ち寄せる。
そのすべてが
遼を押し流そうとする。
講義室のドアの前。
手が伸びない。
(入れない)
ただそこに立つ自分が
透明な壁に阻まれているようだった。
みさきが駆け寄る。
「安藤くん!」
呼ばれる名前が痛い。
「今日、座席変えよ?
少し後ろの方が落ち着けるよ」
優しい提案。
なのに、責められている気がした。
「……ごめん。今日は、無理」
みさきの表情が曇る。
海斗が遠くから見ている。
遼は逃げた。
3
大学裏の人気のないスペース。
遼は壁に背を預けた。
視界が揺れる。
地面が遠のく。
(どうして
呼吸ができないんだ)
喉が狭まる。
酸素が冷たい。
頭の奥で声が囁く。
「もう、無理して笑わなくていい」
その囁きは
優しさのようで
底なしの闇を帯びている。
4
ポケットの中のスマホが震える。
みさき《どこ?心配だよ》
海斗《保健センター行くぞ》
母《遼?大丈夫?》
すべてが重い。
すべてが遼を縛る。
返信しなきゃ。
安心させなきゃ。
期待に応えなきゃ。
(……できない)
指が動かない。
文字が打てない。
遼は
画面を伏せた。
光を拒んだ。
5
ベンチに座り込むと、
昼の太陽がまぶしい。
光が強すぎて
影が濃くなる。
「光は、生きている人のためのものだ」
遼の世界にはいま、
影ばかりが増えている。
青いリストバンドが
太陽に照らされて輝いた。
その青が
自分には似合わない気がして
手首ごと隠した。
(綺麗な色は
誰かのものだ)
6
夕方。
帰宅後の部屋。
机の上の教科書が
山のように見える。
(もう、取り返せない)
遼は立ち尽くす。
何も触れられない。
母の声。
「ご飯できてるよ、遼」
それは、
崖の上から伸びる救命索。
なのに――
「いらない」
声が震えた。
母が近づく音。
「何かあったの?
話してよ」
(話せたら苦労しない)
遼は俯いたまま
小さく答えた。
「大丈夫だよ」
その言葉だけが
崩れゆく自我の最後の防壁だった。
7
夜。
ベッドの中。
カーテンの隙間から
街灯が細い光を落とす。
天井を眺める。
地上にいるのに、
海底と同じ暗さ。
胸の奥に沈む黒い水が
波紋も立てず広がっていく。
遼は気づいていた。
自分が今
水面に指先で触れているだけだと。
ひと押しで落ちる。
ひとつの声で浮く。
世界は脆く
命は細く
未来は遠い。
最後に
遼は薄く笑った。
「ここまでかもしれないな」
その笑いは
涙より静かで
悲鳴より深い。
深海は、もうすぐそこだ。
第7章「破綻点」完




