第七十九話『愛してる』
──────"ねえ。聞いて?"
愛菜は、そっと深海の隣へ歩み寄った。
砕けた石畳を踏みしめる足音は小さく、それでも静まり返った戦場では、不思議なほど鮮明に響いていた。
深海のすぐ隣へ腰を下ろす。震える肩。俯いた横顔。血に濡れた拳。その姿は、彼女が知る"いつもの小柳 深海"とはあまりにも違っていた。
耳元へそっと顔を寄せ、誰にも聞こえないような優しい声で、愛菜は静かに語り始める。第二の師匠が命を賭して時間を稼いでいる間だけ、この場所だけは戦場ではなかった。
轟音も、怒号も、金属がぶつかる甲高い音も、どこか遠くで鳴っているようにしか聞こえない。
二人だけの、小さな世界。誰にも邪魔されない、ほんの僅かな時間。愛菜にとって、その数分は何よりも大切な時間だった。
「────伝えたいことがあるの。…私ね、色々考えてたんだ。どうしたら、シンくんの役に立てるのかどうか。シンくんを、支えられるのか。」
深海は何も答えない。返事をする余裕すらなかった。
心は折れ、身体は傷付き、自分という存在そのものを否定したくなるほど、自信を失っていた。
そんな彼を包み込むように、愛菜はゆっくりと言葉を重ねていく。焦らず。責めず。ただ、大切な人へ届くことだけを願いながら。
彼女の声は、不思議と温かかった。冷え切った身体へ毛布を掛けるような優しさが、その一言一言に宿っている。
「私は、記憶も無くなって、自分が誰でどういう人なのか、自分なのに、自分じゃないような、孤独感でいっぱいだったの。」
一度だけ、小さく息を吸う。思い返すだけでも胸が締め付けられる。昨日まで当たり前だったはずの人生が、ある日突然、真っ白になってしまった。
名前だけが残り、思い出は一つもない。家族も、友達も、自分自身さえも分からない。鏡に映る自分の顔すら、どこか他人のように感じた。
世界にたった一人だけ取り残されたような、どうしようもない孤独。誰にも理解されない恐怖。あの日の冷たさは、今でも忘れられない。
「でも、シンくんだけは、私を知ってくれていた。私が不安や孤独感に苛まれそうになった時、シンくんだけが私の心を満たしてくれた。シンくんの知ってる私を教えてくれた。それが、ほかの何よりも嬉しくて、何よりも幸せだったんだ。」
深海は静かに彼女を見つめる。滲んだ視界の向こうで、愛菜は微笑んでいた。その笑顔は、決して作ったものではない。心の底から溢れた、本物の笑顔だった。
記憶を失ってから彼女は、何度も不安に押し潰されそうになった。時間が経つ事に、自分という人間がどこかへ消えてしまう気がした。
朝になれば、また知らない世界が始まる。そんな日々の中で、深海だけは変わらなかった。
あの出来事以降、深海は壊れかけた彼女の心を救っていた。だからこそ。彼女にとって深海は、世界でたった一人、自分を"知ってくれている人"だった。
だから、今の愛菜は彼を好きになった。理由なんて、それだけで十分だった。深海は何も言わない。
いや、言えなかった。喉が熱く締まり、声にならない。涙だけが静かに頬を伝っていく。
「それなのに私は、あなたの為に何も出来てない。任務から帰ってくるあなたを出迎えたり、料理を作ったり、あなたを支えることは出来ても、助けになることは出来てなかった。」
「そんなこと。ねえ────」
「ううん。そんな事あるんだよ。…私はそれだけが嫌だったの。あなたの助けになれない事は、死ぬ事よりも嫌な事だから。…だからあの時も、怯えずに死を覚悟で来たんだよ。」
あの瞬間を思い出す。巨大な怪物を前にしても、愛菜は逃げなかった。怖くなかったわけじゃない。膝は震え、心臓は壊れそうなくらい脈打っていた。
それでも逃げなかった。
もし自分が逃げれば。深海は、きっとまた一人で全部抱え込んでしまう。それだけは嫌だった。
だから命を懸けた。恐怖よりも。自分が役に立てない未来の方が、何倍も怖かったから。
愛菜の言葉は、静かだった。それなのに、一つ一つが深海の胸へ深く突き刺さる。
「私、海宮愛菜は、あなたの事が気に入ってて、常に一緒にいたくて、ちょっかいかけたくなって、些細なことでいいからあなたを知っていきたい。…そう思ってたんだと思うし、今でも思うよ。…なんでだろう。私の本能的な部分なのかな。…もしかしたら私の中に、まだ前の記憶が少し残ってるのかもね。」
くすっと笑う。涙で濡れたまま、それでも彼女は笑った。理由なんて分からない。記憶はない。
それでも。深海の隣だけは、不思議と落ち着く。名前を呼ばれるだけで安心する。隣を歩くだけで嬉しくなる。それが恋なのか。昔からそうだったのか彼女自身にも分からない。
だけど、身体が覚えていた。心が覚えていた。どれだけ記憶を失っても、深海だけは特別だった。
「記憶を無くしてから今日に至るまで、短い期間だったかもしれないけど、私からしたら、凄く長く感じてたんだ。それは、今がすごく充実してたからだと思う。…あなたの頑張りも、あなたの苦労も、傍で見てたから。陰ながらサポート出来る部分ってどこかなって考えたら、やっぱりご飯を作ったり、出迎えたりする事くらいしか思いつかなかったの。ごめんね。」
「────謝るんじゃねえよ。俺は、それがすげぇ嬉しかったんだ。…でも、強くなるために、アイツに勝つためにここまで努力してきたのに。なんにも通用しなかったんだ。そのくせ、親友を瀕死にして、色んな人を守れなかった。その時点で俺は剣を握る資格なんてない。」
押し殺していた本音だった。第二の師匠にも言えなかった。翔也にも言えなかった。
誰にも言えなかった弱音。だが今だけは、不思議と口から溢れていた。愛菜の前だけは。格好悪い自分を隠さなくてもいいと思えた。
だから全部吐き出した。
情けなさも。悔しさも。恐怖も。
全部。愛菜は最後まで口を挟まなかった。ただ静かに聞き続ける。その姿勢が、深海には何よりも救いだった。
そして。彼女は優しく微笑みながら、たった一言だけを口にした。
「君なら、絶対に勝てるよ。」
その言葉は、とても短かった。励ましとしては、あまりにも単純だった。
けれど。その一言には、何の迷いも疑いもなかった。心の底から信じ切っている人間だけが口にできる、真っ直ぐな言葉。だからこそ、深海の胸を深く貫いた。
否定できなかった。受け流すことも出来なかった。
「おじいさんも言ってたでしょ?あなたの強さは"絶対に諦めない精神力と根性"だって。だから途中で投げ出しちゃダメだと思うんだ。…諦めずに戦い続ければ、絶対に勝てるよ。私は信じてる。あなたが絶対に勝てるって。」
涙を流しながら、それでも笑う。その笑顔は震えていた。
怖い。本当は今にも泣き叫びたい。それでも彼女は笑う。深海を信じるために。深海が自分を信じられなくても。せめて、自分だけは信じ続ける。
その想いだけは、誰にも負けない。深海の視界は、涙で滲んでいた。ぽたりぽたりと落ちる雫が、血で汚れた石畳へ静かに染み込んでいく。
彼は、その涙を拭わなかった。拭う必要がないと思った。愛菜の言葉は、折れかけた心へ少しずつ光を灯していた。
消えかけていた炎は、まだ完全には消えていない。その小さな火種へ、彼女は何度も何度も優しく息を吹きかける。
諦めないで。あなたなら大丈夫。私は信じてる。
その想いだけを、静かに、何度も届け続けていた。
「────ぐふっ!!くそ、バケモンが。」
その頃には、第二の師匠も限界へ近付いていた。ベンケイは再生した両腕を躊躇なく振るい、暴風のような拳を何度も叩き込んでくる。
拳が振るわれる度に空気が震え、砕けた石畳が宙へ舞う。
建物の壁は紙細工のように崩れ、街灯は根元からへし折れ、広場そのものが戦場ではなく災害の跡地へと姿を変えていく。
もはや両腕を取り戻したベンケイは、人ではない。
まさしく"破壊の権化"だった。
圧倒的な膂力。圧倒的な速度。
そして、削っても削っても再生する異常な生命力。
まともに戦えば戦うほど、その絶望だけが色濃くなっていく。
「どうしたァ??まだまだ楽しませてくれるよなァ?あんだけカッコつけて啖呵切っといて、そんな簡単にやられんじゃねェぞ。」
ベンケイは愉快そうに笑う。目の前の男が限界を迎えていることなど、とっくに見抜いていた。
『……マズイな。意識が霞む。出血も酷ぇ。肺も潰れてやがるのか、酸素が上手く吸えねぇ。……少しでも気ぃ抜いたら、このまま倒れちまうな。』
身体は悲鳴を上げていた。肋骨は何本も折れ、砕けた骨が内側を傷付ける。内臓も既に損傷し、吐き出す血の量は増えるばかり。脚には力が入らず、視界の端は黒く欠け始めている。
戦士としての経験が告げていた。このまま戦えば、確実に死ぬ。だがそれでもなお、男の眼光だけは少しも死んでいなかった。
「うるせぇよ。俺にだって譲れねぇモンがあんだ。……今ここで落ちちまったら、アイツが帰って来れねぇだろうが。」
乱れた呼吸の合間に、それでも笑う。歯は血で赤く染まり、立っていることすら奇跡に近い。
それでも前を向く。
「俺はこんなんでも優秀な弟子を持ってんだ。……弟子の前で、無様にくたばる姿だけは見せたくねぇ。」
ゆっくりと足を踏み出す。筋肉は悲鳴を上げ、骨が軋む。それでも意思だけで身体を引きずり起こし、再び構えを取った。
もう単なる技ではない。根性だけで立っている。
気力だけで、生きている。
「……いい目だ。その目だけは嫌いじゃねぇ。」
ベンケイは獰猛に笑った。
そして次の瞬間、再び巨体が踏み込む。
地面が爆ぜる。
瓦礫が舞い上がり、拳と脚が容赦なく襲い掛かる。
第二の師匠も迎え撃つ。
蹴り、躱し、受け流す。
しかし、一撃ごとに動きは鈍くなっていた。
息は荒くなり、身体は確実に限界へ近付いている。
「……もう、あの人も限界だ。」
深海は呟いた。
拳を握り締めても、身体は動かない。
立ち上がらなければならない。助けなければならない。分かっている。頭では理解している。
それなのに。
「……っ、立ち上がらねぇといけねぇのに。……足が、動かねぇ。」
膝は震えたまま動かない。心が身体を縛り付けている。
恐怖。責任。期待。
あらゆる感情が絡み合い、一本の鎖となって深海をその場へ縫い付けていた。
「……ここで動かなきゃ、意味ねぇのに。」
悔しさだけが込み上げる。歯を食いしばる。
それでも、立てない。
そんな彼を見つめながら、愛菜は静かに息を吸った。
「私ね。」
その一言で、深海は顔を上げる。
「考えてたんだ。今この瞬間だけでもいいから、支えるじゃなくて……あなたの本当の助けになりたい。」
その瞳に迷いはなかった。
覚悟だけが宿っていた。
「だからね、さっき治癒術士の人に教えてもらったの。」
一度だけ、小さく笑う。
まるで彼を安心させるような、優しい笑顔だった。
「────私が、あなたの助けになれる方法を。」
そう言うと、愛菜はそっと深海の両手を包み込む。
冷え切っていた彼の手を、自分の体温で包むように。
その瞬間だった。
彼女の掌から、淡く白い光が溢れ始める。
柔らかな輝きは二人の手を包み込み、そのまま水が流れるように深海の身体へ染み渡っていく。
胸へ。腕へ。脚へ。
全身を巡るように、白い光が脈動する。
「……っ!」
深海の身体が震えた。
冷え切っていた身体へ、温かな熱が流れ込んでくる。
失われていた力が、少しずつ戻ってくる感覚。
枯れかけていた命の火へ、新しい薪がくべられていくようだった。
だが、その代償はすぐ隣に現れていた。
愛菜の呼吸が乱れる。
肩で大きく息をしながら、それでも手だけは決して離さない。
「……愛菜っ!何してるんだ……!」
「──っ、はぁ……はぁ……。」
苦しそうに息を整えながら、それでも彼女は微笑もうとする。
「これは……最強の治癒術の一つでね。」
額から汗が零れ落ちる。
唇からは血の気が引き始めていた。
「強力な分、とてつもないリスクがあるから……ほとんど誰も使わない技、なんだって。」
それでも続ける。
深海の手を握る力だけは、少しも弱まらない。
「……簡単に言えば…私の生命エネルギーを……他の人へ分け与えることが出来るの。」
一呼吸置く。
苦しさに胸を押さえながら、それでも彼女は真っ直ぐ深海を見つめていた。
「だから私の……エネルギーを、与えられるだけ全部、あなたにあげる。」
深海の瞳が大きく揺れる。
「……そんなの、そんなのやめろ!!」
叫ぶ。
だが愛菜は首を横へ振った。
「私はもう決めたの。」
その笑顔は、とても穏やかだった。
「あなたが立ち上がれるなら、あなたの力になれるなら、それだけでいい。」
白い光はさらに強くなる。
深海の身体へ流れ込む生命力とは対照的に、愛菜の顔色は少しずつ青白く変わっていく。
生命エネルギー譲渡治癒。会得自体は決して難しくない。だからこそ、誰も使わない。
他者へ生命力を流し込む代償として、術者自身の命を削り続ける禁忌に近い治癒術。
流せば流すほど回復効果は高まる。だが同時に、術者が命を落とす危険性も際限なく跳ね上がっていく。
ほんの数分前。
治癒術士は、この術を愛菜へ教えていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「─────あの、少し、ご相談があるのですが。」
沈黙を破ったのは、愛菜だった。
彼女は小さく拳を握り、勇気を振り絞って口を開く。
「───私に、治癒術を教えてくれませんか。」
その一言は、張り詰めた夜気を真っ直ぐに貫いた。
負傷者の治療へ向かろうとしていた治癒術士たちも、その声に足を止める。
振り返った先にいた少女は、震えていた。
恐怖で。不安で。それでも、その瞳だけは一歩も揺らいでいなかった。
「愛菜さん。治癒術と言っても、短時間で会得できるものはごく僅かですよ。」
年配の治癒術士が静かに口を開く。
「そして、そのような術ほど代償は大きい。命を削るものもあれば、術者自身を壊すものもあります。……正直、私はお勧めできません。」
愛菜は一度だけ息を吸い、胸の前で片手を強く握り締めた。
「……それでも。」
震える声だった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
「それでも、私に治癒術を教えてもらえませんか。」
治癒術士たちは互いに顔を見合わせる。
誰も返事ができない。愛菜は続けた。
「私は……彼の力になりたいんです。今もきっと、彼は命を懸けて戦っています。」
彼女の脳裏には、深海の姿だけが映っていた。
誰かを守るために剣を握り。傷付きながらも前へ進み。それでも弱音を吐かず、笑って帰ってくる青年。
「私はずっと今まで、彼の帰りを待つことしか出来ませんでした。」
唇を噛む。悔しそうに。
「ご飯を作って、出迎えて、支えることは出来ても……本当に苦しい時、本当に助けが必要な時、私は何も出来なかった。」
拳に力が入る。
「それが、本当に悔しいんです。」
静まり返る。誰も口を挟めなかった。
「だから。どんなリスクでも受けます。」
一歩踏み出した。
「命を懸けることになっても構いません。だから、一番効果の高い治癒術を教えてください。」
その場にいた誰もが息を呑んだ。
命を懸ける。簡単に言える言葉ではない。それを迷いなく口にした少女の覚悟だけは、本物だった。
治癒術士たちは困惑する。
教えるべきか。止めるべきか。
誰も決断できず、小さくざわめきが広がっていく。
その時だった。
「皆様。私は、教えるべきだと思いますよ。」
一人のメイドが静かに前へ出る。
穏やかな笑みを浮かべながらも、その目は真剣だった。
「愛菜様は、想い人のために命を懸けると仰っているんです。命を懸ける覚悟を口にすることは、簡単に出来ることではありません。それほどの覚悟を持った方が、それでも後悔しないと言うのであれば……禁忌の治癒術を託す価値はあるかと。」
続いて、女王が頷く。
「───私も同意ですわ。どのような結末になろうとも、自分で選んだ道ならば、きっと後悔はしないでしょうし。むしろやらない方が、後悔が残るのではないですか?」
愛菜へ微笑み掛ける。
「それに……あなたの覚悟は私に十分伝わりました。ですので、私からもお願い致しますわ。」
二人の言葉に、治癒術士たちは長く沈黙した。やがて。一人の治癒術士が、小さく息を吐く。
「……分かりました。」
その言葉に、愛菜の表情がわずかに明るくなる。
「ですが、時間はありません。」
治癒術士は真剣な眼差しで続けた。
「今から教えるのは、生命エネルギー譲渡治癒。術者自身の生命力を、対象へ流し込む治癒術です。効果は極めて高い反面、術者は生命力を失い続けます。」
「もちろん流せば流すほど相手は回復しますが、その分だけ術者は死へ近付きます。」
愛菜は頷いた。一切迷わず。
「覚悟しています。」
治癒術士は、その瞳を見つめる。
恐怖を押し殺し、それでも前を向く少女の姿を。
「……分かりました。それでも覚悟が揺らがないということはきっと、本物の覚悟なのでしょう。ではあまり時間がありませんので、手短にお教えします。」
それからの時間は一瞬だった。
術式。呼吸。
生命力の流し方。
意識の集中。
暴走させないための手順。
必要最低限だけを、短い時間へ全て詰め込む。
当然、練習など出来る時間はない。
本番、一度きり。失敗は許されない。
「……これで術は使えるはずです。」
治癒術士は最後に強く念を押した。
「ですが、本当に危険です。無理をすれば、あなた自身が命を落とします。それだけは忘れないでください。」
愛菜は深く頭を下げた。
「無理なお願いを聞いてくださって……本当にありがとうございました。」
そして、少しだけ笑う。
「あ、フィアちゃんも……ありがとね。」
フィアは柔らかく微笑み返した。
「いえ。大切な人のために覚悟を決めるというのは、とても勇気のいることです。」
胸の前で両手を重ねる。
「私は愛菜様が、どうか無事に戻られることを願っています。必ず、生きて帰ってきてください。」
その言葉に続くように、その場にいた全員が静かに頷いた。
誰一人として声は出さない
それでも、その視線には同じ願いが込められていた。
──どうか、生きて帰ってきてほしい。
愛菜はもう一度だけ深く頭を下げる。
「行ってきます。」
そう告げると踵を返し、夜の街へ駆け出した。
瓦礫を越え、煙の立ち込める道を走る。息が切れても止まらない。転びそうになっても立ち上がる。ただ一人。自分が守りたい人のいる場所だけを目指して。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「だめだ、愛菜……!オレのためだけに、こんな死ぬかもしれないこと……!!」
白い光は止まらない。
深海の身体へ流れ込むたび、愛菜の顔色は目に見えて青ざめていく。肩は激しく上下し、呼吸は乱れ、細い指先は小刻みに震えていた。
それでも彼女は、深海の手を決して離さない。その瞳に宿る決意だけは、少しも揺らいでいなかった。
「あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
苦しみに耐え切れず、愛菜が声を上げる。
全身から力が抜けそうになる。
それでも歯を食いしばり、術を止めることだけはしなかった。
「……っ、はぁ……はぁ……。」
息をするだけでも苦しい。
胸が焼けるように熱く、視界は少しずつ霞んでいく。
それでも、深海を見つめるその表情だけは穏やかだった。
「……これで、少しは……あなたの、力になれるよね。」
苦しそうに笑う。
深海は強く首を振った。もう十分だった。いや、十分過ぎた。
「ああ、なれてるよ……!」
声が震える。
「だからもうやめてくれ……!お前に死なれたらら困るんだよ…!!」
涙が零れる。
「お前が死んだら……オレは、本当に一人になっちまうだろ……!」
その言葉を聞いた愛菜は、小さく笑った。
弱々しく。それでも、いつもの優しい笑顔で。
「……ふふ。」
息を整えながら、小さく首を横へ振る。
「大丈夫。あなたは、一人になんてならないよ。」
か細い声だった。
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。
「……あなたには、みんながいるから。」
深海は何も返せなかった。
返そうとしても、喉が詰まり、声にならない。
愛菜はゆっくりと彼を見つめる。
大好きな人の顔を。
その姿を、目に焼き付けるように。
「……ねぇ、シンくん。」
呼び掛ける。
世界で一番優しい声で。
「……絶対に、勝ってね。…私の想いも背負って。」
小さく微笑む。
「みんなの……英雄に、なるんだよ。」
「────愛菜……。」
その名前を呼ぶだけで精一杯だった。
愛菜はゆっくりと身体を寄せる。
もう力は残っていない。
それでも最後の力を振り絞り、深海をそっと抱き締めた。
温もりは弱々しい。
抱き締める腕にも、ほとんど力は入っていない。
それでも、その温もりだけは確かに深海へ伝わっていた。
耳元へ顔を寄せる。息も絶え絶えの声。
今にも消えてしまいそうなほど小さな囁き。
それなのに。その一言だけは、雷鳴のように深海の心へ響いた。
「─────────愛してる。」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
『────そうか。君が、次の"青眼の構え"の継承者だね。君の有志は、しっかり見させてもらったよ。』
「…此処は?」
『…此処か、そうだなぁ。少し説明が難しいけど。君の精神世界。と言うべき場所かな。この世界は現実でもないし、夢でもない。』
「……なるほど。それで、あなたは?…というかその上着、まさか討伐士…?」
『正解。俺の名前は須郷武道。初代討伐士団長さ。なんてカッコつけたいところだが、俺はただ討伐士って職業を作っただけに過ぎない。』
「初代…ということは師匠よりもっと前の……」
『そう。小川くんよりも、もっともっと前の世代。俺達はもう全員死んじゃって。今この世にはいないけどね。』
「なるほど。…さっき、"青眼の構えの継承者"と言ってましたが、この話の流れ的にやはりあなたが。」
『そうだね。俺が、青眼の構えを作った。とは言っても、最初は青眼の構えなんて名前は付けてなかったんだ。俺はただ戦い続けていた時、全てに対応出来るような構えを、たまたま見つけただけ。それを何処かで、"青眼の構え"なんて呼ばれ方をされていてね。そして、この青眼の構えは少し特殊だったんだ。』
「特殊…?」
『ああ。この構えはどういう訳か、構えを教わり受け継いだ者の、体術や技をも無意識に引き継いでしまう。そんな構えになった。理論は分からないが、引き継げば引き継ぐほどに体術や技のレパートリーが増え、全てに対応できる技に、進化していく。今までもこれからも、引き継がれ強くなっていく。』
「…でもオレは、まだ体術を習っている段階ですよ。オレは青眼の構えを継承しているのに、引き継がれてるはずの技術が使えない。」
『それは君がまだ未熟だからさ。これから先、色々な場所で技術が増えていくだろう。いずれは全てを使いこなせるようになるよ。』
「…でも、今倒さなきゃいけない相手がいるんです。そいつに勝てないと、オレは先に進めない。」
『分かっているさ。見ていたからね。…そんな君に朗報。君の中に眠る青眼の構えが成長している。それといいタイミングで、君の生命エネルギーも極限まで高まっている状態だ。これなら一時的にはなると思うが、青眼の構えに眠る真の力が覚醒しだすだろう。』
「ほ、本当ですか…!それなら…」
『だが忘れないで欲しい事がある。その覚醒した力を使いこなせるかどうかは、君のセンスにかかっている事と、わかっていると思うが今回の覚醒は、彼女の犠牲があっての事だ。彼女の覚悟を踏み躙らない様に、絶対勝ち切ることだ。───もちろん、俺達も全力で君のサポートをする。だから、俺らを使いこなして見せろ。この力を有効活用出来るのは、君だけだ。』
覚悟が決まった。
深海は目を瞑り精神統一させて、一息ついて一言。
「分かりました。…絶対に、ベンケイを倒します。」
『よし。覚悟決まった顔になった。…じゃあ行ってこい。必ず君が、この力を使いこなすんだぞ。そして、世界の平和を守ってくれ。俺達は、君に期待している。』
その途端、白い光が世界を覆った。
精神世界から消える瞬間、初代団長が、微かに微笑み、拳を握りこちらに向けた。
それに応えるように、深海も拳を握り向けた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ははっ、やっぱテメェは、期待以上の…化け物……だぜ。俺が全盛期でも…勝てたか怪しい…な。」
血を吐き、内臓は潰れ、呼吸は浅い。
一度息を吸うだけでも肺が悲鳴を上げ、胸の奥から鈍い痛みが全身へと広がっていく。全身は血に濡れ、衣服は赤黒く染まり切っていた。
もう立ち上がる力は残されていない。
指一本動かすことさえ難しく、視界はぼやけ、意識はゆっくりと暗闇へ沈もうとしていた。
それでも彼は、最後まで怪物から目だけは逸らさなかった。
蹴りの貴公子──梶田獅童。
その男は、ベンケイとの死闘の果てに敗北した。
数え切れないほど蹴りを叩き込み、何度倒されても立ち上がり、弟子のために命を削って戦い続けた。
しかし、それでも届かなかった。
ベンケイの全身には多少の傷こそ刻まれているものの、その巨体はなお健在。
呼吸一つ乱さず、その場に立ち続けている。二人の間には、あまりにも大きな実力差が存在していた。
「貴様の動きは悪くなかったぞ。蹴りの威力や殴りの威力だけでいえば過去一だったかもしれないな。だが、俺には届かなかった。それだけだ。」
勝者として語るその声には、不思議と嘲笑だけではない感情が混じっていた。
強者として認めたからこそ放たれる言葉。
だが、それは敗者にとって何の慰めにもならない。
「……あぁ。琴葉、修斗。……すまない。俺はどうやら、ここまでらしい。……お前らの成長を、もう少し近くで、しっかり見届けたかったよ。」
霞む視界の中で、愛弟子たちの姿が浮かぶ。
不器用で、生意気で、それでも誰よりも真っ直ぐだった二人。
もっと強くしてやりたかった。
もっと一緒に笑ってやりたかった。
もっと拳を交え、技を教え、未来を見届けたかった。
その願いは、もう叶わないのか。
瞳から光が少しずつ失われていく。
呼吸は細くなり、鼓動も弱くなり始めていた。
命の灯火が、静かに消えようとしていた。
「はァ。惜しいよなァ。貴様みたいな強者が死んでいくのは。……俺も辛いさ。……戦など起きなければ、こんなことにはならないんだがな。」
巨大な身体がゆっくりと歩み寄る。
石畳を踏み締める度に、鈍い地響きが広場へ響く。
ベンケイは地面へ転がっていた一本の剣を拾い上げた。
月明かりを受け、刃が鈍く光る。
その切っ先が、獅童の喉元へゆっくりと向けられる。
「俺だって鬼じゃねェ。せめてこれから苦しまねえよう、いますぐに終わらせてやるからよ。」
終わる。ここで、一人の師匠が命を落とす。
だが彼はもう動けない。腕も上がらず、脚も動かず、瞼すら開けることが出来ない。
最期を受け入れるしかなかった。
その時──────
空気が変わった。夜風が止まる。
街灯の明滅さえ、一瞬だけ止まったような錯覚。
広場全体を覆っていた空気が、何者かの存在によって一変する。
重い。だが、それは威圧だけではない。
どこまでも静かで、澄み切った、それでいて底知れない圧倒的な気配。
「───なんだ、この圧倒的な気配は。先程まで無かった異質な気配。」
ベンケイは剣を止めた。本能が告げていた。今までとは違う。この気配だけは、絶対に無視してはならないと。ゆっくりと、その気配の先へ視線を向ける。
砂煙の向こう。瓦礫の中。
静かに、一人の少年が立っていた。
先程まで膝をつき、絶望に飲み込まれ、剣を抜くことさえ出来なかった少年。
小柳深海。
その姿は、先程までとは別人だった。
白く染まった髪が夜風に揺れる。燃えるような赤い瞳が静かに輝き、その眼差しには一切の迷いが存在しない。
全身を包む白いオーラは、まるで呼吸するように脈打ち、足元の砂や瓦礫をゆっくりと浮かせていた。
怒りでもない。憎しみでもない。恐怖でもない。
ただ静かな覚悟だけが、その場を支配している。
「……おい、まさかお前。ボウズか?さっきとは雰囲気が明らかに違う。」
ベンケイでさえ、その変化を理解出来なかった。
目の前にいるのは確かに同じ少年。
しかし、纏う空気も、立ち姿も、呼吸も、存在そのものがまるで別人だった。
「ごちゃごちゃうるせぇよ。早くかかってこい。」
その一言だけ。
静かに放たれたその声には、焦りも怒りもない。
ただ圧倒的な自信だけが宿っていた。
その一言だけで、広場の空気がさらに重く沈む。
「ほぉ?言うようになったじゃねェか。クソガキ。……まさか俺様にまだ勝てると────」
最後まで言わせなかった。
深海は静かに青眼の構えを取る。
その瞬間だった。世界から音が消えた。
速すぎて、誰一人として動きを認識出来なかった。
足が地面を蹴る音も。風を裂く音も。剣が振られる音も。────何一つ聞こえない。
ただ、一筋の白い軌跡だけが夜の広場を駆け抜けた。
次の瞬間。ベンケイの両腕が宙を舞う。
さらに一拍遅れて、深海の拳が顔面へとめり込んだ。
轟音。巨大な身体が砲弾のように吹き飛び、石畳を何十メートルも削りながら転がっていく。
建物へ激突し、壁を突き破り、その衝撃で周囲の瓦礫が一斉に宙へ舞い上がった。
静寂が起き、誰一人として何が起きたのか理解出来ない。吹き飛ばされたベンケイ本人でさえ、自分が殴られたことに気付けていなかった。
深海だけが、静かにその場へ立っている。
剣先を下ろし、まるで散歩でも終えたかのような穏やかな表情で。
「おいおい、てめぇの身体はこんなに脆かったのか?まるで豆腐みてえだったぜ。」
その声だけが、静まり返った戦場へ響く。
「……くそっ、クソガキがぁぁ!!!」
ベンケイは怒号を上げる。
失われた両腕の断面から再生が始まり、肉が盛り上がり、骨が伸び、筋肉が絡み合い、瞬く間に元の腕へ戻っていく。
怒りによって全身から禍々しい闘気が噴き出す。
地面が軋み、空気が震え、広場全体がその殺気に包まれた。
だが、それでも深海は微動だにしない。
「おいおい。そんなに激昂するなよ。どうせまた再生するんだろ??再生してみせろよ!ほらほら!どうした?」
まるで子供をからかうような口調。完全に挑発していた。ベンケイの怒りは頂点へ達する。負の感情が膨れ上がり、怪物の闘気はさらに濃くなる。
普通の人間なら、その場に立っているだけで膝をつき、気絶してしまうほどの圧力。
だが深海だけは違う。赤い瞳は一切揺るがず。白い髪を風になびかせながら。静かに、真っ直ぐに。
英雄は怪物を見据え続けていた。
「舐めるなよクソガキ!!!俺様の本気……見せてやる。後悔するなよ!!」
「…ははっ、そうこなくっちゃな。オレは、テメェの本気を叩きのめしたいんだ。……愛菜や翔也、みんなで紡いだこの力で。」
ベンケイが、腹の底から響くような咆哮を轟かせた。
その声だけで空気が震え、崩れかけた建物の窓ガラスが細かく砕け散る。広場全体へ重苦しい振動が走り、砕けた石畳の隙間から砂埃がふわりと舞い上がった。
そして巨体は、自らの胸へゆっくりと手を伸ばす。
───心臓。
躊躇なく、自らの心臓を鷲掴みにした。
握り潰さんばかりの力で鼓動を無理やり加速させる。
ドクン。ドクン。
ドドドドドドドッ───
鼓動が異常な速度へ変わるたび、全身へ血液が勢いよく巡り始める。筋肉という筋肉が脈打ち、浮き上がった血管は蛇のように全身を這い、皮膚の下で蠢いていた。
さらに、獣のような叫び声を夜空へ響かせる。
「───グォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!」
鼓膜を裂くほどの咆哮。
轟音が広場を駆け抜け、瓦礫が細かく震え、遠くで倒れかけていた街灯が一本、耐え切れずに崩れ落ちる。
それでも。深海は眉一つ動かさなかった。
静かに立ち尽くし、その様子を眺める。
「……それにしても何してんだ。あいつ。うるっせぇし、早く終わんねぇかな。」
数秒後。鼓動が限界まで加速した瞬間だった。
ベンケイの肉体が、さらに膨れ上がる。肩幅が広がる。胸板は岩壁のように厚みを増し、脚は大木どころか鋼鉄の柱のような太さへ変貌していく。
皮膚の色そのものは変わらない。
だが、その質感だけが異様だった。
鈍く光を反射する肌は、まるで何重にも鍛え上げられた鋼板。
筋肉の一つひとつが金属の塊のような重量感を放ち、その場へ立っているだけで地面が軋み、石畳がゆっくりと沈み込んでいく。
空気が重い。
いや、重力そのものが強くなったかのような圧迫感。
広場一帯を覆っていた殺気が、さらに濃密になっていく。その双眸には、先程まで以上に濁った殺意だけが宿っていた。
「はっはっはっはっは!!!!やはりあのお方の力は最高だ!!!あのお方の言う通り、俺様は進化した!!もう全人類、誰一人として俺様には勝てねぇ!!!」
歓喜に満ちた笑い声。自らの肉体へ酔いしれるように腕を広げ、大声で笑い続ける。
圧倒的な力を得たという確信。それだけで、この怪物は笑っていた。
だが。その姿を真正面から見つめる深海は、まるで興味がないと言わんばかりに肩を竦める。
動揺もない。焦りもない。恐怖もない。
その赤く染まった瞳だけが、静かに怪物を映していた。まるで全てを見透かしているように。
その姿勢は微動だにせず、構えすら変えない。完全に、肝が据わっていた。
「ボウズ!!貴様は後悔するだろう!!俺様をここまで追い込んだことをなァ!!!貴様を殺したら、次はこの全人類だ!!世界中を血で染め上げ、一人残らず皆殺しにしてやる!!!」
怒号が夜空へ響く。その宣言には一切の冗談が無かった。この怪物なら、本当に実行しかねない。
だからこそ。深海は静かに息を吐き、小さく笑った。
「やれるもんなら、やってみろよ。」
一歩。ゆっくりと踏み出す。
砕けた石畳を踏み締めても、その足取りは揺るがない。
「デカブツが、硬いデカブツに変わっただけじゃねぇか。」
青眼の構えを取る。静かに。力みは一切なく。
それでも、その場の空気が張り詰める。
夜風が白い髪を揺らし、赤い瞳だけが真っ直ぐに怪物を射抜いていた。
「……テメェはオレが、ここで終わらせてやる。」
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