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そして君は明日を生きる  作者: 佐野零斗
第五章『天道教 vs 東商討伐士』

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第七十八話『敗北の先へ』

 壊れた街灯が、壊れかけた命のように明滅を繰り返していた。白く。暗く。また白く。不規則に揺れる光が、戦場となった広場を断続的に照らし出していく。


 砕け散った石畳。崩れ落ちた外壁。至る所に刻まれた巨大な亀裂。そして、地面へ黒く染み込んだ無数の血痕。


 つい先程まで、この場所でどれほど激しい死闘が繰り広げられていたのかを物語るには、それだけで十分だった。


 そんな静寂に包まれた戦場の中央で、一つだけ異様な存在感を放つ影がある。


 "鉄壁のベンケイ"


 討伐士数百人を壊滅へ追い込み、第三位・隘路すら瀕死に追い込んだ怪物。深海との激戦によって両腕を失った今なお、その巨体は一切揺らいでいなかった。


 肩口から先は存在しない。


 そこには無骨に切断された断面だけが残り、普通の人間なら大量出血で即死していてもおかしくない傷が生々しく晒されている。


 しかし、その傷口から血が流れることはない。

 肉は塞がり、断面だけを残したまま、不気味な静寂を保っていた。


 異形。その言葉が、これほど似合う存在もいない。

 しかも両腕を失ったというのに、その姿から“不自由”という印象はまるで感じられなかった。


 むしろ、逆だった。


 腕という武器を失った代わりに、異常なまでに鍛え上げられた下半身が、より一層際立って見える。


 丸太のような太腿。岩を削って作ったような脹脛。

 ただ立っているだけで石畳へひびが入り、わずかに重心を動かすだけで地面が軋む。


 あの脚そのものが、一つの凶器だった。その真正面。桜木翔也は、小さく息を吐く。額から汗が流れる。頬を伝い、顎先から雫となって落ちる。


 それを拭おうとはしなかった。視線を逸らすことすら惜しい。ただ真っ直ぐ、目の前の怪物だけを見据えていた。恐怖はある。もちろん理解している。相手は深海ですら満身創痍に追い込まれた怪物。


 油断すれば、一撃。たった一撃で命を奪われる。

 それでも翔也は、不思議と笑っていた。胸の奥から湧き上がる高揚感。未知の強敵を前にした武者震い。


 恐怖すら楽しもうとするような、生まれ持った戦闘センスが、その瞳に宿っていた。


「───んじゃあまずは先手必勝!」


 叫ぶと同時に地面を蹴る。迷いはない。

 両腕を失った今こそ最大の好機。その隙を逃す理由など、一つもなかった。翔也の身体が低く沈み、そのまま一気に加速する。


 まるで地面を滑るような軽やかな足運び。剣を引き絞り、一気に間合いへ飛び込む。狙うは胴。


 巨体を支える体幹ごと断ち切るつもりで、渾身の一閃を振り抜こうとした─────その瞬間だった。


 ベンケイの身体が、ふっと消えた。後方へ跳んでいた。あの巨体とは思えないほど軽快なステップ。


 まるで何百キロという質量が存在しないかのような動きで、斬撃の軌道から完全に離脱する。


「うぉ!マジか…!!おまえ、身体でっけぇのにこれ避けんの!?いまのだいぶ手応えあったのによ!」


「フン、腕が無かろうが、貴様の遅く鈍い攻撃など…喰らわん!」


 翔也は思わず苦笑する。図体だけの怪物ではない。あれほど巨大でありながら、反応速度まで化け物。深海が苦戦した理由を、開始数秒で嫌というほど理解した。


「へぇ、んじゃあこーいうのはどうかなっ!」


 言葉と同時に翔也が再び踏み込む。しかし、その瞬間。ベンケイの脚が跳ね上がった。丸太のような脚が鞭のようにしなり、真っ直ぐ翔也の胸元を貫こうと迫る。


 だが翔也もまた、並の討伐士ではない。反射だけで身体を動かす。迫る蹴りを紙一重でかわし、そのまま蹴り脚へ片手を添える。


 体重を預ける。身体を大きく反らせる。

 一瞬だけ逆立ちのような姿勢となり、その反動を利用して身体を一回転。


 踵を真っ直ぐベンケイの顔面へ叩き込んだ。


「しっかり喰らってんじゃねえか。ばーか。」


 乾いた衝撃音が響く。

 ベンケイの頭が僅かに揺れる。

 普通の人間なら、その一撃だけで首が折れていてもおかしくない。だが怪物は笑っていた。


「……ぐっ…今のはいいぞ。今のはいい攻撃だった。だがそれでは、防御が甘い…!」


 その言葉と同時だった。翔也の身体がまだ空中にある。つまり───逃げ場がない。


 ベンケイの脚が、そのまま振り抜かれる。反射的に両腕を前へ出す。受けるしかない。


 轟音。骨が軋む音。

 腕越しに伝わる、常識外れの衝撃。


「っ、がぁぁぁぁッ!!」


 身体が宙へ弾け飛ぶ。まるで砲弾のような勢いで壁へ激突し、石壁が大きく陥没した。砕けた瓦礫が降り注ぐ。翔也は咳き込み、大量の血を吐いた。


「いてて、なんてパワーだ……。こんなバケモンとやり合ってたのかよ深海は…。あいつも相当バケモンだな。」


 腕が痺れる。骨まで響く痛み。それでも折れてはいない。


 辛うじて受け切った。その事実だけでも奇跡だった。少し離れた場所では、深海が止血と応急処置を続けている。翔也の戦いを見守りながら、少しずつ呼吸を整えていた。ふと視線が合う。


 言葉はない。だが、それだけで十分だった。


 ────任せろ。

 ────頼んだ。


 二人の想いが、一瞬で重なる。

 翔也は大きく息を吸い込み、再び立ち上がった。

 口元の血を乱暴に拭い、剣を握り直す。


「おっしゃぁぁぁ!!!まだ負けねえぞ、鉄壁!!お前のでかい図体ぶっ倒してやる!!」


「ほお、威勢のいいやつは大好きだ。だが、威勢だけでは本物を越えられない。俺には勝てない。」


 その言葉が終わるより早く。地面が爆ぜた。

 ベンケイが踏み込む。たった一歩。それだけで十数メートルという距離が消え去る。丸太より太い脚が横薙ぎに振り抜かれ、空気そのものを切り裂いた。


 爆風。衝撃波。蹴りそのものより先に、大気が翔也へ襲い掛かる。


「うぉっと、あっぶねえ。少し踏み込んだだけでなんつう衝撃波だ…!」


 咄嗟に後方へ跳ぶ。確かに避けた。

 蹴りそのものは届いていない。それでも数瞬遅れて押し寄せた風圧だけで、身体が大きく吹き飛ばされた。


 地面を何度も転がる。だが翔也は、その勢いさえ利用した。片手を地面へ突き、身体を跳ね上げる。まるで体操選手のような軽やかな動きで、見事に着地してみせた。


「よっし、無事着地っと。…にしてもすっげぇパワー。さっきまともに喰らってよく生きてたな俺。自分を褒めてえくらいだよ。」


 笑う。普通なら震えていてもおかしくない状況。それでも翔也は笑っていた。


 その直後。先ほどまで立っていた場所へ、踵落としが叩き込まれる。轟音。石畳が陥没し、巨大なクレーターが生まれる。砕けた石片が弾丸のように飛び散り、壁という壁へ突き刺さっていく。


 もし、ほんの一瞬でも反応が遅れていたら。人間の身体など、跡形もなく潰されていただろう。翔也は笑みを消さないまま、瓦礫を軽く蹴った。


 勢いよく壁へ飛び移る。壁を足場にして駆け上がる。さらに別の壁へ。地面だけではない。上下左右、あらゆる空間を利用しながら、縦横無尽に戦場を駆け始めた。


「チッ、ちょこちょこ動きやがって。」


「さあデカブツよ、俺のスピードについて来れんのか!着いてこれねえなら、俺に勝つことは出来ねえぜ!」


 ベンケイが苛立たしげに舌打ちを鳴らす。その巨体に似合わぬ鋭い視線が、翔也の姿を追い続けていた。


 だが、追えているだけだ。捉えられない。翔也の動きは、まるで風だった。一直線ではない。右へ、左へ。前へ出たかと思えば、次の瞬間には後方へ跳び、さらに壁を蹴って頭上へと移る。


 軌道が読めない。否、読ませる気がまるでない。翔也は崩れた車へ飛び乗ると、潰れたボンネットを踏み台にして勢いよく跳躍する。


 鉄板が大きく歪み、鈍い音を響かせた。その反動を利用し、一気にベンケイの死角へ潜り込む。


 視線を誘導する。動きを散らし、戦場に転がる瓦礫や車両、崩れた建物までも足場として利用し、戦場そのものを巨大な遊具へ変えてしまう。


 それが桜木翔也という男の戦い方だった。誰にも真似できない。誰にも予測できない。自由奔放でありながら、理に適った立体機動。


 ベンケイの背後へ滑り込むと、翔也は迷うことなく低い姿勢から脚を振り抜いた。狙いは、怪物を支える脚部。鋭いローキックが、丸太のような太腿へ叩き込まれる。


「…っ、試しに蹴ってみたが、やっぱりその、鍛え抜かれた丸太見てえな脚にはダメージゼロか。」


 鈍い音だけが響く。肉を蹴った感触ではない。鉄柱を蹴ったような硬さ。衝撃はそのまま翔也の脚へ跳ね返り、痺れが膝まで走った。


 痛みが全身を纏う。まともに蹴り続ければ、先にこちらの骨が砕ける。それほどまでに異常な肉体。


 だが翔也は最初からダメージなど期待していなかった。欲しかったのは、たった一瞬。その僅かな時間だけだった。蹴られた反応でベンケイが振り向こうとする。


 その動作よりも速く。翔也は片手を地面へつき、身体を大きく捻る。勢いを利用して跳ね上がる。逆立ちに近い姿勢から空中へ飛び出し、身体を横へ流しながら回転。


 踵が一直線にベンケイの顔面へ叩き込まれた。鈍い衝撃音。巨体が僅かに揺れる。顔が横へ流される。


「…作戦成功!さっきよりモロに入った!…これで少しは効く────はず。」


 そう呟いた、その瞬間だった。視界からベンケイの姿が消えた。違う。消えたのではない。低く沈んでいる。


 下だ。直感が叫ぶ。翔也は考えるより先に身体を捻る。その刹那。巨大な脚が真横を通過した。空気そのものが押し潰され、暴風が全身を叩きつける。


「あっぶねえ…!!っ、避けるので精一杯だ。こいつ、でかいくせにスピードまであるからな。厄介この上ねえよ。」


 紙一重。本当に数センチの差だった。蹴りは地面を深く抉り取り、そのまま後方まで一直線に削り飛ばしていく。砕けた石畳が舞い上がる。土煙が噴き上がる。


 さらにその先に積まれていた大型コンテナへ直撃。数トンはある鉄塊が、まるで空き缶のようにひしゃげ、そのまま数十メートル先まで吹き飛んでいった。


 信じられない。あれほどの重量物が、一撃。ただ蹴っただけで、だ。翔也の頬を、一筋の冷や汗が流れ落ちる。たった一発でも直撃すれば終わる。


 骨も。内臓も。命さえも。何一つ残らない。それほどまでの破壊力。だがその事実が、翔也の闘志を削ることはなかった。むしろ逆。口角がゆっくりと上がる。


 心臓が高鳴る。全身の血液が熱く巡っていく。これほどの強敵。これほど命を懸ける価値のある相手。だからこそ、楽しい。


「…フン、中々やるな、お前。俺の腕が無いとはいえ、俺の攻撃が中々当たらねえ。今まで対峙した討伐士の中では、間違いなく五本の指には入るぞ。」


 ベンケイが低く笑う。翔也は答える代わりに、再び地面を蹴った。今度は真正面。逃げない。一直線に突っ込む。だが、その足取りは単調ではない。


 左右へ細かく揺れながら距離を詰める。肩を揺らし。視線を散らし。フェイントを幾重にも織り交ぜる。


 蹴りを放つと見せかけて、一気に姿勢を落とす。そのまま地面を滑るように潜り込み、低い足払いへ移行する。


 ベンケイの体勢を崩す。そのはずだった。


 しかし。怪物は片脚を軽く持ち上げるだけだった。まるで子供の悪戯でも避けるような、あまりにも簡単な動作。


 翔也の蹴りは空を切る。そして。持ち上げた脚が、そのまま真下へ落ちた。巨大な質量が落下する。


 空気が押し潰される。翔也は咄嗟に横へ転がる。次の瞬間。轟音と共に地面が爆発した。石畳が砕け散り、衝撃波が四方八方へ吹き荒れる。


 翔也の身体が大きく弾き飛ばされた。肺の中の空気が一気に吐き出される。呼吸が乱れ、喉が焼ける。


 それでも止まらない。止まった瞬間、死ぬ。そのことだけは嫌というほど理解していた。


「うぉっ!?… お前!体重何キロあんだよ!!ゴジラが踏み付けたみたいな衝撃波来たぞおい!!」


 瓦礫の向こう。応急処置を続けていた深海が、その戦いを見守っている。止血は順調に進んでいた。


 呼吸も徐々に整い始めている。


「…やっぱり翔也のスピードは、ベンケイと比じゃないが、あのベンケイの一撃貰ったら流石に死ぬ。…俺も、もうすぐ止血が終われば参戦出来る。……少しの間、持ち堪えてくれよ、翔也。」


 深海は拳を握る。焦る気持ちを抑え込みながら、応急処置を急ぐ。


 一方その頃。翔也は吹き飛ばされた勢いを利用し、転がりながら瓦礫を掴む。その反動で、一気に跳躍。


 高く。さらに高く。崩れかけた街灯を足場にして、空へ駆け上がる。身体を反転。月明かりを背負いながら、真上から一直線に落下していく。


「おっりゃぁぁぁ!!!喰らえ!!!!」


 狙いは首。

 倒せないなら。支えられないようにすればいい。落下の勢い。回転の遠心力。全体重を乗せた踵が、ベンケイの側頭部へ叩き込まれた。


 衝撃。巨体が大きく揺れる。今までで最も大きく。初めて明確に体勢を崩した。だが翔也は止まらない。


 着地すらしない。蹴った反動を利用し、空中で身体をさらに一回転。二撃目。三撃目。四撃目。回転するたびに踵が唸りを上げ、ベンケイの頭部へ何度も何度も叩き込まれていく。


 常識ではあり得ない空中機動。地面を使わず。足場もなく。柔軟性と反射神経だけで繋ぎ続ける連撃。


 それは武術というより、本能だった。天性の身体能力だけが可能にする、桜木翔也だけの戦い方だった。


「あいつ…体幹とスタミナどうなってんだよ。相当なトレーニングを積まないと、あそこまで出来ねえぞ。」


「少しは効いたか??鉄壁!!」


 だが、それでも────倒れない。


「チッ、ハエみてえにブンブンブンブン蹴るだけ、喧しいんだよ!」


 ベンケイは脚を振るう。その瞬間、空気そのものが悲鳴を上げた。巨木を薙ぎ払う暴風のような衝撃が真正面から襲い掛かり、目には見えない空気の塊が翔也の全身を呑み込む。


 身体が宙へと弾き飛ばされた。


 翔也は咄嗟に腰を捻り、空中で無理やり体勢を立て直す。何度も回転しながら両足を地面へ向け、石畳を滑るように着地した。


 靴底が砕けた地面を削る。火花が散る。数メートル滑った末、ようやく勢いを殺した。


 その時だった。胸が苦しい。息が上がっている。肺へ酸素を送り込もうとしても、呼吸が浅く速くなるばかりで思うように吸えない。


 脚へ力を込めても、踏み込みが一瞬遅れる。ついさっきまで羽のように軽かった身体が、鉛を巻き付けられたかのように重かった。


 確実に、体力が削られていた。


「はあ、はあ。俺も流石に…あそこまで攻撃したら疲れてきたな。地味にさっきの蹴り喰らったダメージも残ってんのかなぁ。こりゃマズイな。俺もここで、やられちまうのかな。」


 対して、怪物は何一つ変わらない。呼吸も乱れていない。傷を負っているはずなのに、その巨体は依然として揺るがず、ただ静かに歩いてくる。


 削っても削っても止まらない。攻撃を浴びせても勢いは衰えず、その圧だけが確実に翔也へ迫ってくる。まるで巨大な山が、そのまま歩いてきているようだった。


「少しでも俺に勝てるという自信でここまでやってきたのだろうが。未だに決定打を当てられていない。そんなんで、よく俺の前に立ったなァ?ボウズ。はあ、もう少し期待してたのだが。期待外れだ。いまの討伐士は、このレベルか?このレベルで、平和を救えるのか?」


 ドスン。

 巨体が一歩踏み出す。地面が揺れ、石畳に亀裂が走る。広場そのものが震え、逃げ道が少しずつ削られていく。まるで世界そのものが、この怪物へ味方しているかのようだった。


 翔也は荒い息を吐き出す。そして───笑った。


「ふふ、ふふふふ、はっはっはっはっは!!!冗談よせよ。俺はまだ死んでねえぞ?死んでない限り、負けじゃねえんだよ単細胞!!俺の体は、まだまだ動く!!…こっからが勝負だろうが!!」


 追い詰められている。満身創痍だった。全身の筋肉は悲鳴を上げ、骨は軋み、呼吸さえ苦しい。


 それでも笑う。絶望的な状況であるほど、この男は燃える。恐怖よりも先に闘争心が勝る。負けそうになるほど、心が躍る。───それが桜木翔也という男だった。


 次の瞬間。石畳が砕け散る。翔也は爆発するような勢いで地面を蹴り、一直線にベンケイへ飛び込んだ。


 今までで最速。いや、今までの翔也では到達できなかった速度。風すら置き去りにし、残像だけを背後へ残しながら怪物との距離を一瞬で消し飛ばした。


「速いっ…!目で追うのが精一杯だ…。」


 迎え撃つように、ベンケイの脚が迷いなく振り抜かれる。巨大な丸太が薙ぎ払われるような一撃。


 喰らえば即死。だが翔也は、その蹴りを避けようとはしなかった。真正面から飛び込む。唸りを上げる脚へ向かって跳躍し、その通過する脚へ片足を乗せた。


 一瞬。本当に一瞬だけ。怪物の脚が翔也の踏み台になる。その反発を利用し、さらに加速。身体を捻りながら高く舞い上がり、何度も何度も空中で回転する。


 夜空が流れる。壊れた街灯の光が視界を横切る。瓦礫。崩れた建物。そして怪物の顔。全てが高速で反転し、翔也の視界から消えていく。


 回転。加速。さらに加速。全身に蓄えた遠心力を踵へ集中させ、最後の一撃を叩き込む。


 踵が落ちる。狙いは頭頂部。全体重。落下速度。回転の勢い。これまで積み重ねた全てを乗せた渾身の一撃だった。轟音が炸裂する。


 ベンケイの巨体が大きく沈み込み、その衝撃が地面へ突き抜けた。


「これが俺の…最高火力だぁぁぁ!!!!」


 石畳が耐え切れず陥没する。衝撃波が円を描くように広場全体へ広がり、砕けた瓦礫や土砂を高く巻き上げた。


「やった…!まともに蹴りが入ったぞ。流石のベンケイでも無事じゃ居られないはずだ。」


 辺り一帯を砂煙が覆い尽くす。静寂。土煙だけがゆっくりと漂っていた。その中央。翔也は荒い息を吐きながら、宙へ身体を止められていた。


 まるで時間だけが止まってしまったかのように。違和感が走る。動けない。離れられない。何故だ。その答えを知るよりも早く───


「───フハハハハハハ!!残念だったなァ?そう何度も何度もおなじ攻撃を見せたらよ。子供だってこんな攻撃塞げちまうぞ?確かにスピードやパワーは見事なものだった。まともに喰らえば流石の俺もやばかったかもしれねェ。だが場所さえわかっちまえば、無くなった腕でもガード出来ちまったんだよなァ!!」


 砂煙が晴れる。そこに立っていたベンケイは、悠然と笑っていた。そして。翔也の足首を掴んでいたのは───本来存在しないはずの右腕だった。


 切り落としたはずの腕。地面へ転がっていたはずの腕。それが何事もなかったかのように再生し、翔也の蹴りを受け止め、そのまま足首を強く握り締めていた。


 有り得ない。人間に欠損した腕を再生させる能力など存在しない。理解が追いつく前に、世界が反転する。腕一本で翔也の身体を軽々と持ち上げ、そのまま容赦なく地面へ叩き付けた。


「────ぐはっ…くそっ…。」


 石畳が砕け散る。骨が悲鳴を上げる。肺の奥から大量の血が込み上げ、口元から溢れ落ちた。


 終わらない。一度では終わらない。ベンケイは翔也を握ったまま何度も何度も地面へ叩き付ける。


 砕ける石畳。舞い上がる血飛沫。全身の筋肉が引き裂かれ、骨という骨が悲鳴を上げる。


 意識が遠のく。視界が白く霞む。そして翔也は、抵抗する力を完全に失い、白目を向いたまま意識を手放した。


「翔也…!!くそっ、もう止血はいい…!それよりも翔也を助けねえと!!」


 深海は中途半端だった止血剤を投げ捨て立ち上がり、柄へ手を掛け、一気に剣を引き抜いた。狙うのは、再生した片腕。再び切り落とす。その一心で駆け出した。


「あ?なんだボウズ。このお友達が欲しいのか?なら、ほらよ!!」


 しかし、その瞬間だった。ベンケイは気絶した翔也を軽々と持ち上げ、そのまま深海目掛けて投げ放つ。


 深海は反射的に剣を手放し、翔也を受け止めることを優先した。勢いを殺しながら抱き抱え、その場へ膝をつく。


「おい翔也、翔也!返事をしろ!!翔也!!!」


 返事はない。深海は震える指先で首元へ触れ、脈を測る。


 ───生きている。かろうじて脈はあった。だが安心などできない。白目を剥き、口からは血を流し、全身の至る所が不自然に変形している。


 骨折。内臓損傷。筋断裂。どれも致命傷になりかねない重傷だった。一刻も早く治癒術士による治療を受けなければ、命は助からない。


「どうする。カエリ玉はさっき使っちまったし、ベンケイがいる前じゃ、治癒術士に渡す隙を与えてくれない。…だめだ。万事休すだ。やっぱり俺が今、ここで、こいつを殺るしか道はねえのか。」


 深海は静かに息を吐いた。肺へ流れ込む空気は熱く、鉄の匂いが鼻腔を刺す。全身の傷が脈打ち、止血しきれていない傷口からは今もなお温かい血が滲み続けていた。それでも痛みを気にする余裕などない。


 翔也は瀕死。治癒術士の元へ運ばなければ助からない。しかし、その道を塞ぐように怪物が立っている。


 時間がない。選択肢もない。残された答えは、ただ一つだった。深海はゆっくりと立ち上がる。


 先ほど投げ捨てた剣を拾い上げ、その柄を強く握り締めた。傷口が開く。痛みで腕が震える。それでも視線だけは、一度もベンケイから逸らさなかった。


 静かな覚悟だけが、その瞳に宿っていた。


「おいボウズ、ヤツはもう瀕死状態だぜ?早く治してやった方がいいんじゃねえのか?ア!悪い悪い!!この場所には治癒術士が居なくてぇ?ボウズも治癒術使えねえんだったな!!はっはっは!!」


「黙れよ。お前のくだらねぇ煽りにオレが乗せられると思うなよ。今、俺に投与していた止血剤を翔也に打ったし、応急処置はした。でも時間がねえのも事実。…だから今、オレがお前を殺して、“親友を”助けてやる。」


 その言葉には怒鳴るような激情はなかった。だからこそ重い。静かで、冷たく、決して揺るがない殺意だけが込められていた。


 ベンケイはその視線を真正面から受け止める。口元がゆっくりと吊り上がる。巨大な身体に似合わぬ余裕の笑み。片腕だけとなったその腕を軽く持ち上げ、指先を折り曲げながら挑発するように手招きをした。


 ─────来い。


 そう語るように。深海の胸の奥で、再び感情が暴れ始める。怒りや憎しみ。殺意。愛菜を傷付けられた怒り。師匠を死へ追い込んだ憎しみ。翔也を瀕死へ追いやられた殺意。


 それらが黒い濁流となって心を埋め尽くそうとした、その時だった。


「───深海。」


 微かだった。今にも消えてしまいそうなほど弱々しい声。それでも、その声だけは確かに深海の耳へ届いた。


 弾かれたように振り返る。そこには、意識を取り戻した翔也の姿があった。顔色は青白く、口元には血が滲んでいる。呼吸も浅く、今にも意識を失いそうだった。


 それでも翔也は笑おうとしていた。


「翔也!!お前、大丈夫なのか!!」


「嗚呼…なんとか、な。…ごめん、深海。本当に時間稼ぎくらいしか、出来なかった。…でも深海。お前は、絶対強えから、あいつに勝てるさ。……前さ、要らねえ感情に支配されて、前が見えなくなることが、あるだろ?…琴葉との戦いだってそうだった。───あの場面で、もし自分の意識がハッキリあって、前をしっかり観ていれば、お前は、琴葉に勝っていた可能性だってある。」


 血を吐きながら紡がれる言葉。一言話すだけで苦しそうに息を漏らす。それでも翔也は、最後まで言葉を止めようとはしなかった。


 深海は何も言えない。ただ親友の瞳を真っ直ぐ見つめ、その言葉を一つ残らず受け止めようとしていた。


「───お前の強さを出して、冷静に戦えば、絶対に勝てるよ。…俺も、お師匠に教わったんだ。冷静に戦うことの大切さをな。…だからどうか。やつを…お前の手で、倒して欲しい…。」


 深海の胸が締め付けられる。痛い。傷の痛みではない。心の奥を握り潰されるような感覚だった。


 まただ。

 また、期待されている。

 師匠も。翔也も。みんなが、自分なら勝てると言う。


 その期待が、鉛のような重さとなって肩へ圧し掛かる。呼吸が浅くなる。剣を握る手に力が入らない。


『───本当にそうなのか。…オレは強くなんかない。みんなが思ってるほど、強くなんてない。オレは何処にでもいるただのオタクで、戦いの才能なんて何一つない、ただのクソガキだ。オレが要らない感情に支配されるのも、“オレが弱い”からだ。────なのに、翔也も師匠も、なんでそんなに期待する目を向けるんだよ。』


 未来へ飛ばされてから一年余り。必死に剣を振った。必死に流派を学んだ。誰よりも泥臭く転び、誰よりも不器用に立ち上がり続けた。


 それでも自分は英雄ではない。

 才能に恵まれた人間でもない。

 どこにでもいる、ごく普通の高校生。

 オタクで、ゲームや漫画が好きなだけの少年。

 そんな自分が、世界を救う?

 そんな自分が、この怪物を倒す?


 重すぎる。

 あまりにも、その期待は重かった。

 逃げ出したい。剣を捨ててしまいたい。

 そんな弱音が、心の奥底から何度も顔を覗かせる。


 その頃。この戦いは中継映像として、多くの市民へ届けられていた。避難所。病院。討伐士本部。壊れかけたモニターの前で、人々は固唾を呑みながら、この戦いを見守っている。


 誰もが願っていた。


 ─────勝ってくれ。


 ───────もう終わらせてくれ。


 ────────家族を守ってくれ。


 ──────────英雄になってくれ。


 その想いは画面越しでも確かに深海へ向けられていた。本人の知らないところで。本人が望んでもいないところで。少年は、いつしか誰かの希望になっていた。


「───もう諦めたのか?ボウズ。遺言が終わったんなら、早く殺してやるからかかってこい。」


 ベンケイの声が現実へ引き戻す。だが深海の思考は、まだ心の奥底を彷徨っていた。


 何のために戦う。何のために剣を振るう。誰のために、この命を懸けている。愛菜を傷付けられたからか。師匠を奪われたからか。翔也を傷付けられたからか。


 それは全部、怒りや憎しみという負の感情から生まれたものではないのか。なら、自分を動かすべき本当の感情とは何だ。守りたいという気持ちか。救いたいという願いか。それとも─────


 答えは見つからない。考えれば考えるほど思考は絡まり、出口のない迷路へ迷い込んでいく。


 気付けば、剣を握る手は止まっていた。柄へ添えた指先は微かに震え、鞘から刃を抜くことすら出来ない。深海はただ立ち尽くしたまま、自分自身の弱さと向き合い続けていた。


「──オレは、なんで戦ってたんだっけ。」


 重傷を負い、意識を失った親友を寝かせたまま、深海はゆっくりとうつむいた。握っていたはずの剣は力なく垂れ下がり、鞘に収まったまま微動だにしない。


 もう、抜く気力すら残っていなかった。全身を覆う疲労。裂けた傷口から滲む痛み。何よりも胸を締め付けていたのは、自分ひとりに託された期待だった。


 ベンケイへ背を向けたまま、深海は一歩も動けない。戦場の真ん中で、心だけが完全に立ち止まっていた。


「なんだボウズ、急にナーバスになったか?なんだそれは、最後の最後。こんな終わり方か??……そうか。つまらん男だったな。俺の心の中に刻まれる男かと思っていたが。拍子抜けだ。」


 嘲笑が響く。だが、その声すら今の深海には遠く聞こえていた。足は震え、膝から力が抜ける。肩は小さく縮こまり、自然と呼吸も浅くなる。


 翔也から託された言葉。師匠から受け継いだ流派。討伐士のみんなの期待。守ると誓った仲間たち。


 その全てが、今の深海には重すぎた。


 背負えば背負うほど胸が締め付けられ、息が詰まり、身体が動かなくなる。


 ─────その時だった。


 静まり返っていた広場へ、小さく、それでいて必死な足音が響く。石畳を蹴る音。何度も転びそうになりながら、それでも止まらず走る音。


 戦場には似つかわしくない、懸命な足音だった。深海もベンケイも、同時にそちらへ視線を向ける。


 そして、その姿を見た瞬間─────。


「……シンくん!!」


 聞き慣れた声だった。何度も笑い合い、泣き合い、支え合ってきた、大切な人の声。その一言だけで、止まっていた時間が僅かに動き出す。


 深海はゆっくりと顔を上げた。光を失っていた瞳に、小さな輝きが戻る。


「愛菜……?なんでここに。」


 掠れた声。生気のないその問いかけに対し、少女は息を切らしながらも、まっすぐ彼を見つめ返していた。


 一方で、ベンケイの表情から余裕が消える。両目が僅かに見開かれ、初めて明確な動揺が浮かんだ。


「──あのガキは……まさか。あの時俺が殺したガキ……なのか?なんで生きてやがる。確かに腹を貫いたはずだ。明らかに死んでいたはずなのに…どういうカラクリだ。」


 理解できない。確実に命を奪ったはずだった。自らの手応えに、一切の迷いはなかった。それなのに目の前には、その少女が生きて立っている。


 常識が揺らぐ。

 ほんの一瞬だけ、怪物の思考が止まった。


「愛菜…何してる。ここは危険だ。逃げた方がいい。お前も、この場で死にたくねえだろが。」


 深海は弱々しく呟く。その声には、かつての力強さは欠片もなかった。誰かを守ろうという意思すら、今は霞んでしまっている。


 それでも愛菜は首を振る。足は震えていた。肩も小刻みに揺れている。怖くないはずがない。目の前に立つ怪物から放たれる殺気だけで、普通の人間ならその場に崩れ落ちても不思議ではない。


 それでも少女は、一歩も退かなかった。


「───ははは。でもまァ都合がいい。貴様も、貴様の女も、二人まとめて、今ここで殺してやるぜ。……いや、待てよ。」


 ベンケイの口元が大きく歪む。

 獲物を見つけた猛獣のような笑みだった。


「……貴様のさらに絶望した顔が見たくなってきたなァ。そうだ。テメェの前で、無惨にあの女を殺してやる。前回は一撃で終わらせちまったが、今回は惨い方法で……な?」


 重い一歩が踏み出される。

 ズン────と地面が沈み、砕けた石畳が震える。また一歩。距離が縮まる。巨大な影が、ゆっくりと愛菜へ覆い被さっていく。


 あと数歩。それだけで届く距離だった。深海はその光景を見ていた。だが、身体は動かない。剣を握る指にも力が入らない。


 助けなければ。そう思う心は確かにある。それなのに、それ以上に胸の奥から湧き上がる感情があった。


 ────もう終わりにしたい。


 ────全部投げ出したい。


 ────もう、楽になりたい。


 守ることも。戦うことも。期待されることも。何もかもが苦しかった。心が擦り切れ、限界を迎えた少年には、その場から一歩踏み出す力すら残っていなかった。


「悪ぃなァ、こんなべっぴんな女を殺したくはねぇんだが。あいつをただ殺す訳にはいかねぇからよぉ。残念だけどお前は……いたぶって殺させてもらうぜ?」


 怪物は嗤う。その巨大な身体がゆっくりと愛菜の目前まで迫る。圧倒的な殺気。逃げろと本能が叫ぶ距離。


 それでも愛菜は動かなかった。瞳には涙が溜まっている。唇は震え、呼吸も乱れている。恐怖で身体は強張っていた。


 それでも少女は逃げない。諦めない。視線だけは逸らさず、まっすぐベンケイを見据え続けていた。その瞳には、恐怖よりもなお強い意志が宿っていた。


『────もういいんだ。オレは。オレ達は。…十分オレはやっただろ。ベンケイの為に必死に特訓して、必死に努力して、山の修行だって、師匠と美咲にボコられながら、必死に頑張ってきた。よく考えたらオレは、頑張りすぎていたのかもしれない。……もう疲れたよ。疲れたんだよ。ひとつの目的のために努力して、救うために、みんなを守るために努力し続けた。でも、今こうして親友が死にかけて、愛菜も殺される寸前。…結局オレは、守れないんだ。何も守れずに、師匠も居なくなり。目的もなくなった。……オレは、ヤツに負けたんだ。その事実は変わらない。どれほど努力しようと、結果が伴わなければ、意味が無かったんだ。…終わりにしよう。もう頑張る必要なんて、ないだろ?十分すぎるくらいオレは頑張った。ここで終わるのも、悪くない。』


 深海の心は、とうに限界を迎えていた。何度剣を握り直しても、力は入らない。何度前を向こうとしても、身体は言うことを聞かなかった。


 頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。戦う理由も。守る理由も。ここに立つ意味さえも、もう分からない。


 テレビ中継の向こうでは、避難した東商の人々が、この戦いを固唾を呑んで見守っている。


 ────勝ってくれ。助けてくれ。英雄になってくれ。


 画面越しに向けられる無数の期待。その一つひとつが、今の深海には重すぎた。


 応えたい。応えなければならない。そう思うはずなのに、胸の奥から湧き上がってくるのは、そんな使命感ではなかった。


 もう、終わりにしたい。もう、全部から解放されたい。そんな弱音だけが、心を静かに蝕んでいく。


 だから今、目の前で愛菜が命を狙われていても。身体は、一歩も動かなかった。


「…私。怖くないから。」


 静かな声だった。だが、その一言は、不思議なくらい戦場によく響いた。


「───あ"? 今なんつった?」


「─私、怖くないから!!」


 深海がゆっくりと顔を上げる。視線の先にいた愛菜は、確かに震えていた。肩も、小さな手も、足先も。


 恐怖で身体は震え、涙は止まっていない。

 それでも。瞳だけは、真っ直ぐだった。

 一歩たりとも退くつもりはない。そんな強い意思だけが、その小さな身体を支えていた。


「シンくんは、私がどんな人間か、どんな事を成し遂げてきたのか。全部を優しく教えてくれた。…記憶の無くなった私に、勇気と希望を与えてくれたの、…私の体をどうこうしたいなら好きにしなさい。でも、私は絶対逃げたりしない。…この場に来た以上、シンくんの助けになるまでは、絶対死ねない!!それが、私の覚悟だから!」


 どうして。深海は、思わず息を呑んだ。


 どうして、そんな顔ができる。

 どうして、そんな覚悟を持てる。

 彼女は戦えない。


 剣も握れない。異能力もない。身体だって強くない。

 昔から泣き虫で、怖がりで、危ないことがあるたび自分の後ろへ隠れていた、ただの幼馴染だった。


 それなのに。今、この戦場で一番強い目をしているのは、間違いなく彼女だった。


 深海の胸の奥で、何かが微かに揺れた。

 止まっていた歯車が、ほんの少しだけ動き出す。

 その瞬間だった。


「そうか。じゃあ俺が握り潰してやる。覚悟だけじゃ、強者には勝てねえんだよ。…テメェみてぇなヒョロ女、俺の片手で十分だ……!!」


 巨大な腕が、愛菜へ伸びる。


 次の瞬間────


 空気が弾け飛び、ベンケイの腕が横殴りに吹き飛ばされた。


「……ッ!?」


 巨体が初めて大きく体勢を崩す。筋肉の塊のような腕が、大木でも薙ぎ倒されたかのように弾かれ、石畳を削りながら大きく逸れていく。


 煙草の香りが、ふわりと風に乗った。


 白い煙がゆっくりと戦場へ流れ込み、その向こうから、一人の男が姿を現す。


 キセルを咥え、気怠そうに煙を吐き出しながら。


「────ふぅ。」


 その背中には、一切の隙がなかった。静かなのに、誰よりも強い。そこに立っているだけで、この場の空気が変わる。


「おい。」


 低く、よく通る声。


「嬢ちゃんがこうやって覚悟持って顔を上げてんのに……なんでおめぇが顔下げてんだよ。深海。」


 第二の師匠だった。立ち技を叩き込み、深海に蹴りの極意を教えた男。あの怪物の腕すら容易く弾き飛ばすハイキックは、この男以外には真似できない。


 深海はゆっくりと顔を上げる。

 視線の先では、愛菜が涙を流しながらも立っていた。

 そして、その前には第二の師匠。


 守られたことへの安堵と、突然の登場への驚きが入り混じり、愛菜は言葉を失っていた。


「……なんで、あなたがここに……。」


「───琴葉が気になってな。」


 師匠は肩を竦め、小さく煙を吐く。


「俺の馬鹿な一番弟子が、琴葉を襲撃するって道場飛び出してった。それを止めに来てみりゃ……おめぇが下向いてたんじゃねぇか。」


 その何気ない言葉が、深海の胸へ深く突き刺さる。


 情けなかった。

 誰よりも守ると誓った自分が。

 誰よりも前に立つと決めた自分が。


 今は誰にも顔を向けられず、ただ俯いている。


「……でも。俺はもう……だめなんです。……勝てる気がしない。みんなを守れる気がしない。」


 剣を握る手にも、もう力は入らない。

 震えた声で、弱音を吐く。


「……オレには、覚悟が足りなかったんです。」


 その声は弱く、震えていて、とても戦場に立つ人間のものとは思えなかった。


 だが、それこそが今の深海の本音だった。

 英雄になりたいと叫んだ少年は。今、自分自身を信じることすら、できなくなっていた。


「それじゃあ、テメェは何しにここへ来た。……ふぅ、お前は何のために、この戦場へいる。」


「……分かりません。最初は、目的がありました。でも、目の前でたくさんの人が死んで……オレの親友まで、こんな姿になって。もう、大切な人が倒れていくところなんて見たくない。……だったら、オレもみんなもここで朽ちてもいい。…そう、思いました。」


 その言葉を聞いた瞬間だった。

 師範の姿が、ふっと掻き消える。次の瞬間には、深海の目前。空気を裂く鋭い踏み込みと共に、鍛え抜かれた脚が大きく振り抜かれる。


 ──鈍い衝撃。


 頬骨を撃ち抜くような蹴りが深海の顔面へ突き刺さり、その身体は軽々と吹き飛ばされた。


 石畳を何度も転がり、ようやく止まる。


 口の中へ広がる鉄の味。砕けた歯が血と共に地面へ転がり、頬は瞬く間に腫れ上がっていく。


「────っ……え……?」


 何が起きたのか理解できない。

 深海は呆然としたまま、ゆっくりと師範を見上げた。

 そこにあったのは、普段の穏やかな笑みではない。弟子へ向ける、怒りにも似た真剣な眼差しだった。


「ふぅ……テメェ、その程度の覚悟で討伐士になろうと思ったのか。」


 静かな声だった。

 だが、その一言には、蹴り以上の重さがあった。


「そんな覚悟しかねぇなら、ここで死ぬんじゃねぇ。今すぐ討伐士を辞めろ。テメェは今、死ぬ価値すらねえからよ。」


 言葉が、胸へ突き刺さる。


「そして今まで、お前に希望を託して命を散らしていった、死ぬ価値があった最高の戦士たちに、一人残らず墓前で土下座してこい。」


 一歩。また一歩。ゆっくりと深海へ近付く。


「『期待させて、それを裏切ってしまった挙句、命を掛けてくれたのに、自らそれを放棄し何も出来ず、申し訳ありませんでした』ってな。」


 深海は声も出せなかった。

 反論できない。胸の奥へ、ただその言葉だけが沈んでいく。


「今のテメェには、それがお似合いだ。」


 拳が震える。

 頬の痛みなど、とっくに感じなくなっていた。

 痛かったのは、心だった。師範の言葉は、深海自身が一番目を逸らしていた現実を、一切の容赦なく突き付けてくる。


 ─────そうだ。今まで、どれだけ多くの人間が自分へ希望を託してきた。


 何人もの討伐士が命を懸け、自分へ未来を繋いだ。

 その中心にいたのは──師匠だった。

 命を削りながら青眼の構えを磨き上げ、自分へ遺し、未来を託した男。


 なのに。自分は、その意味を理解したつもりでしかいなかった。


「───テメェの師匠……清光は、どうしてお前に希望を見出したと思う。」


 その名を聞いた瞬間、深海の瞳が揺れる。


「才能があったからか?」


「違う。」


「センスがあったからか?」


「違う。」


「お前の目が──真剣だったからだろうが!!」


 怒号が戦場へ響き渡る。その瞬間。深海の脳裏へ、師匠との日々が次々と蘇った。


 血だらけになった稽古。何度倒れても立ち上がった夕暮れ。震える手で剣を握った夜。


「もう一回お願いします」と頭を下げ続けた自分。


 そうだ。師匠は、一度も深海を見捨てなかった。


「俺ん所へ来た時だってそうだ!!」


 師範の声が続く。


「『強くなりてぇ』って、あんな真っ直ぐな目で俺を見たじゃねぇか!!」


 一歩。さらに近付く。


「だから俺は教えた。アイツだって教えた。その真っ直ぐな気持ちと、諦めねえ根性があったから、みんなお前に、託したんだろうが!!」


 師範は深海の胸元を掴み、力強く引き寄せる。


「俺たちはな、テメェがこんな所で下向いて死ぬような男だなんて、一度も思っちゃいねぇんだよ!!」


 怒鳴り声が鼓膜を震わせる。深海の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「だから、下を見るな。」


 掴んでいた胸元を離す。


「前だけを見ろ。目の前の敵を倒すまで、絶対に諦めるな。」


 そう言って師範は、大きな手で深海の頭を優しく撫でた。先ほどまで怒鳴っていたとは思えないほど、その手は温かかった。


 まるで父親のように。まるで師匠のように。

 深海は奥歯を噛み締める。涙が止まらなかった。


「あのデカブツも、もう待っちゃくれなさそうだ。」


 師範はゆっくりとベンケイへ視線を向ける。


「深海。俺が数分だけ、あいつを引き受ける。その間に頭を冷やせ。心を整えろ。そして戻って来い。守るために戦え。」


「……でも。オレは……。」


 深海の声は震えていた。


「足が…動きません。少し…時間を…。」


 恐怖。責任。期待。

 あらゆる感情が身体を縛り付けている。

 そんな弟子を見て、師範は呆れたように鼻で笑った。


「──馬鹿野郎。だから、その時間を俺が命懸けで作ってやるって言ってんだろ。その時間すら無駄にする気か。」


 師範はベンケイへ向かって歩き出した。


「そこの勇気ある嬢ちゃん。…深海を頼んだ。どうにかして、深海のやる気を引き上げてやってくれ。俺が出来るのは、ここまでみたいだから。」


「分かりました。絶対に私が何とかします。」


 一歩一歩。焦ることなく。

 長年積み重ねてきた武人としての風格を纏いながら。

 その背中は、大きかった。


「オイ、さっきは、よくもやってくれたなァ?」


 ベンケイが口角を吊り上げる。


「いきなり現れて、俺様の腕を蹴り飛ばすとは。いい度胸じゃねぇか、ジジイ。」


 師範はキセルを口へ運び、ゆっくりと煙を吐いた。


「ふぅ……言っとくが、言うほどジジイじゃねぇ。まだ四十九だ。現役を退いて弟子を育ててきた俺なんぞに負けたら、お前の方が恥ずかしいぜ。」


 煙が夜風へ溶けていく。


「まぁ、これほどデカい相手と組手するのは初めてだからな。」


 師範は口元を緩めた。


「少しだけ……楽しみでもある。」


 ベンケイが獰猛に笑う。


「勘違いすんなよ、ジジイ。俺が今からやるのは殺し合いだ。稽古なんてもんじゃねぇ。テメェも死ぬ。俺も死ぬかもしれねぇ。そういう戦いだ。逃げるなら今のうちだぞ。」


 師範は肩をすくめ、小さく笑った。


「ふぅ……お前、本当に脳みそまで筋肉だな。俺が逃げる?」


 静かに腰を落とす。

 右足を半歩引き、自然体の構えを取る。

 その姿からは、一切の隙が消えていた。


「元討伐士。最強の団長・小川清光が率いた第四十二代討伐士。"蹴りの賢者"──梶田獅童(かじたしどう)。」


 ゆっくりと拳を握る。


「それが、俺だ。」


 鋭い眼光がベンケイを射抜いた。


「今度は俺が──お前を蹴り潰してやるよ。」


 ベンケイも口元を大きく歪める。


「やってみろ。老いぼれのクソジジイ。骨の一本残らねぇくらい、バッキバキにへし折ってやるよ。」

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