第八十話『希望の残骸』
ベンケイの全身から、黒紫色の闘気が噴き上がった。
それは、まるで巨大な噴火口から噴き出す溶岩のように荒々しく、周囲の空気そのものを震わせながら、際限なく膨れ上がっていく。
溢れ出した殺気は広場全体を覆い、砕けた石畳を軋ませ、崩れかけた建物の外壁すらも微かに揺らしていた。
地面に散らばっていた瓦礫が、まるで見えない力に押し上げられるように次々と浮き上がる。壊れた街灯は不規則な明滅を繰り返し、そのたびに黒紫色の闘気が白く照らし出される。
重く垂れ込めた夜空の下では、先ほどまで吹いていた夜風さえも途絶え、広場全体が巨大な怪物の誕生を恐れるかのように静まり返っていた。
「ハァ……ハァ……ハァァァァァァァァァァ!!!!」
ベンケイは荒い呼吸を繰り返した。そのたびに全身の筋肉が大きく隆起し、皮膚の下で筋繊維が蠢くように膨張していく。
血管という血管が浮かび上がり、太い腕も、分厚い胸板も、鍛え抜かれた脚も、さらに異常なまでの密度と厚みを増していった。
まるで、人間の身体という器そのものが、内側から別の生物へと作り替えられているようだった。
やがて、その巨体を支えていた石畳が限界を迎える。
───ミシッ。
足元に亀裂が走った。
次の瞬間、ベンケイの体重と膨張した肉体に耐え切れなくなった石畳が音を立てて陥没する。
「フハハハハハハハハ!!!!!!力が……溢れてきやがる!!!これだ……これなんだよ!!!俺様が求めていた究極の力はァァァァァ!!!」
歓喜。狂喜。理性すら飲み込むほどの興奮。
その叫び声には、自分が得た力への陶酔と、目の前にいる少年を叩き潰せるという確信が満ちていた。
もはや、そこにいるのは人間と呼べる姿ではない。
ただでさえ異常な巨体を誇っていた肉体はさらに膨れ上がり、その全身から放たれる黒紫色の闘気が、まるで怪物の身体そのものを包み込む鎧のように渦巻いている。
化け物が、さらに化け物へと進化した。
「どうしたボウズ!!!さっきまでの威勢はァどこいった!!?怖気付いたかァ!?この姿を見て、足が竦んだかァ!!?」
ベンケイが吠える。ただの雄叫びだった。
それだけのはずだった。
だが、その声に込められた圧力は凄まじく、周囲の空気そのものを震わせる。
ビリビリと空気が揺れ、広場中の窓ガラスが次々と砕け散った。近くの電柱が軋み、崩れかけた外壁から細かな瓦礫が零れ落ちる。
さらには遠くに停められていた車までもが衝撃を受け、タイヤを地面から浮かせながら横転した。
普通の討伐士なら、立っていることすら困難なほどの圧力だった。だが。その真正面に立つ白髪の少年だけは、一歩も動かなかった。
白い髪が夜風の名残に揺れている。
赤く輝く瞳は、目の前の怪物だけを静かに見据えていた。怒りもない。焦りもない。恐怖もない。
ただ、そこにいる敵を観察している。
まるで荒れ狂う嵐の中心だけが、異様なほど静まり返っているかのようだった。
ベンケイがどれほど殺気を放とうと、どれほど巨大な身体を見せつけようと、深海の表情は微塵も変わらない。
そして。深海は、ほんの僅かに首を傾けた。
「……もう終わりか?」
その一言だった。
大声でもない。威圧するような声でもない。
ただ、淡々と問いかけただけだった。
それなのに、その言葉はベンケイの絶叫よりも重く、広場に響き渡った。
「あァ?」
ベンケイの眉が跳ね上がる。
「オレに勝つためにやった変身は、もう終わりなのかって言ったんだよ、デカブツ。今のオレが怖気付く?勘違いも大概にしろよ、能無し。」
深海はそれだけ言うと、ゆっくりと剣を持ち上げた。
そして、静かに青眼の構えを取った。
剣先は敵へ向けられ、身体は僅かに沈み、肩の力は完全に抜けている。
呼吸も一定だった。
先ほどまでなら、強敵を前にした緊張や恐怖が身体のどこかに表れていたはずだった。
だが、今は違う。覚醒した深海が青眼の構えを取った瞬間、まるで身体の中にあった歯車が一つずつ噛み合っていくような感覚があった。
視界が広い。音が鮮明だ。身体が軽い。
それでいて、全身の奥底から力が絶え間なく湧き上がってくる。
『……なんだろう、この感覚。』
深海は、自分自身の身体を確かめるように僅かに指を動かした。
『今、青眼の構えを取ると……凄く安心する。身体が軽くて、どんな動きでも出来るような気がする。それなのに、力はどんどん漲ってくる。』
不思議だった。今まで何度も繰り返してきた構えのはずなのに、まるで別物に感じる。
『……きっと、先代の継承者達が、俺に力を与えてくれているんだろうな。』
深海は小さく息を吐いた。構えに無駄な力は一切ない。むしろ、隙だらけにすら見える。
普通の人間が見れば、いつでも斬り込めそうな無防備な構えだった。
しかし。ベンケイだけは違った。
「…………。」
巨体が、僅かに固まる。背中を、嫌な汗が伝った。理由は分からない。ただ、本能が警鐘を鳴らしていた。
───近付くな。
───あの距離へ踏み込むな。
───踏み込めば、死ぬ。
それは、理屈ではなかった。今まで幾度となく死線を潜り抜けてきたベンケイの身体が、目の前の少年を見た瞬間、勝手に危険を察知していた。
だがその感覚を、ベンケイは怒りで塗り潰す。
「クソガキがァ……!」
拳を握り締めた。
「俺を……この俺様を……舐めるなァァァァァァァァ!!!!!!!!」
次の瞬間地面が爆発した。轟音と共に、ベンケイの巨体がその場から消える。踏み込みの一撃だけで、数十メートルにわたって石畳が弾け飛び、地面が一直線に抉れていく。
先ほどまでとは、速度そのものが違っていた。巨大な肉体からは到底想像出来ないほどの加速。
視界から消えたかと思った次の瞬間には、すでに深海の目の前まで迫っている。巨大な拳が、空気を引き裂きながら深海へと襲い掛かった。
拳の周囲で空気が圧縮され、凄まじい衝撃波が発生する。その拳が通過しただけで、一直線上にあった瓦礫が粉々に砕け散り、さらにその先にあった建物の外壁が、拳が触れるよりも先に衝撃波によってまとめて吹き飛んだ。
これまでの攻撃とは、比較にならない。
速度も威力も破壊力も。すべてが桁違いだった。
そして、その拳は。真正面から、深海へ迫っていた。
「死ねェェェェェェェェ!!!!」
轟音が夜の広場を震わせた。
次の瞬間、拳が地面へ叩き込まれ、爆発にも似た衝撃が一帯を駆け抜ける。石畳は根こそぎ吹き飛び、地面は大きく抉れ、広場の中央が丸ごと消し飛んだ。
巻き上げられた土砂と瓦礫が巨大な煙柱となって空高く舞い上がり、周囲に残っていた建物まで衝撃で軋みを上げる。
視界を覆い尽くすほどの土煙。
その中心を見つめながら、ベンケイは荒い息を吐いた。
「ハァ……ハァ……どうだァ!!今の一撃は、完全に避けられなかったはずだ!!少しは効いたろ、ボウズ!!」
ベンケイは笑った。勝利を確信していた。
あれほどの速度。あれほどの威力。
覚醒した自分が放った渾身の一撃を、あの少年が無傷で受け切れるはずがない。
そう思っていた。
「アホか。全然効いてねえよ。むしろ、当たってもねぇぜ。」
───声が聞こえた。自分の真後ろから。
「……何?」
ベンケイの笑みが消える。ゆっくりと振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
「……どこに────」
違う。どこかに気配はあったのだから。
ベンケイが深海を捉え、すぐ横だと気付いた。
「遅えよ。」
声が聞こえた瞬間、ベンケイの視界の端に白い髪が揺れた。
そして、ゴッ─────!!
鈍く、重い音が響いた。深海の拳が、ベンケイの脇腹へ静かにめり込んでいた。
派手な動きはない。大振りでもない。
ただ、最短距離を走った正拳。それだけだった。
「……がっ。」
ベンケイの呼吸が止まる。
巨体が、ほんの一瞬だけ地面から浮いた。
その直後。ドゴォォォォォン!!!!
巨体が砲弾のように吹き飛んだ。
地面を何度も跳ね、瓦礫を巻き上げながら数十メートルを一直線に飛んでいく。
そのまま建物の壁を一棟、二棟、三棟と次々に突き破り、最後には巨大な建物の外壁へ激突して、ようやくその勢いを止めた。
轟音が街中へ響き渡る。崩れ落ちた建物の瓦礫が、雨のように地面へ降り注いだ。
その光景を、深海はただ静かに眺めていた。驚きもしない。喜びもしない。
まるで、当然の結果を確認しているだけだった。
「……お前、意外と脆いな。」
深海は剣を持ったまま、ゆっくりと歩き出す。
「拍子抜けだ。身体が異様にデカいだけで、耐久力はその辺の人間と大して変わらねえのかよ。」
自分でも驚いていない。
それが当然だと言わんばかりの声音だった。
瓦礫の山が動く。崩れた壁を押し退け、ベンケイがゆっくりと立ち上がった。
「ガハッ……ガハァァァァ……!!」
口から大量の血が溢れ落ちる。
肋骨が何本も折れている。
肺は潰れかけ、内臓にも深刻な損傷が走っていた。
呼吸をするだけで激痛が全身を駆け巡る。
「あり得ねぇ……この俺様が……たった一発……だと?」
理解出来ない。
つい先ほどまで、自分こそが絶対的な強者だと思っていた。あのお方から授かった力。自分自身が積み重ねてきた力。そして今、覚醒によってさらに引き上げられた肉体。もう誰にも負けることはない。
そう確信していたのに。たった一発。
たった一発の拳で、自分の身体はここまで壊された。
「この……クソガキィィィィィ!!!!!!」
理解出来ないという感情が、やがて純粋な怒りへと変わる。怒りが理性を焼き、ベンケイの身体から黒紫色の闘気が再び噴き上がった。
「殺してやるァァァァァァァ!!」
地面を蹴る。今度は拳ではない。
巨大な脚が、凄まじい速度で振り抜かれた。
一撃二撃三撃。
巨体からは想像もつかない速度で、連続して回し蹴りが放たれていく。
蹴りが空気を巻き込み、幾重もの暴風が発生する。
その風圧だけで石畳が削られ、砕けた瓦礫が宙へ舞い上がり、空気そのものが刃物へ変わったかのように大地を切り裂いていく。
「死ねェ!!死ねェェェェ!!」
ベンケイは蹴り続ける。怒りに任せて。
目の前の少年を消し去るためだけに。
しかし。深海は歩いていた。
ただ前へ。一歩。また一歩。ベンケイの蹴りが迫るたび、ほんの僅かに身体をずらす。
首を傾ける。肩を引く。半歩だけ踏み込む。
それだけだった。まるで、最初から攻撃の軌道が見えているかのように、すべての蹴りが深海の身体を紙一重で通り過ぎていく。
避けようとしているようにすら見えない。ただ歩いている。それだけなのに一発も当たらない。
「なんで……なんでだァァァァ!!!!!!」
ベンケイの蹴りがさらに加速する。
しかし、深海の視線は変わらない。
赤い瞳は冷静にベンケイの身体を捉え、筋肉の動き、重心の移動、足の踏み込み、肩の僅かな揺れ、そのすべてを読み取るように動いていた。
「はぁ……。お前さ、力み過ぎだ。」
迫り来る蹴りを、身体を僅かに傾けて躱す。
「本当にオレを葬る気で戦ってんのか?しっかりオレに当てねえと意味ねえぞ。」
次の蹴りが迫る。
深海はそれを半歩だけ後ろへ引いて躱した。
「さっきオレを死の間際まで追い込んだ時みてえに撃ってみろよ。」
さらに一撃。紙一重。
「ほら。」
また一撃。それも余裕で回避。
「ほら、ほらほら。どうした?」
「クソがァァァァァ!!!!」
ベンケイは怒りに任せて、さらに蹴りを叩き込む。
だが、その蹴りすら深海には届かない。
「当てろっつってんだろ?」
その瞬間だった。
深海の手が、ベンケイの足首を掴んだ。
「……なっ!?」
ベンケイの目が見開かれる。
次の瞬間。
「そうしねえと────」
深海はベンケイの足を掴み持ち上げた。
100kgは絶対に超えている体を軽々と。
「おらァ!!」
巨体が浮いた。
「おらおらおらおらおらおらおらおら!!!!」
深海はベンケイの脚を掴んだまま、身体ごと振り回す。
巨体が宙を舞う。地面を擦り。建物へ叩き付けられ。
瓦礫を吹き飛ばし。
再び宙へ放り上げられる。
「うぉぉぉりゃァ!!」
最後に深海が大きく腕を振り抜いた。
遠心力を乗せて放り投げられたベンケイの巨体が、まるで赤子のように弄ばれながら夜空を飛んでいく。
ドゴォォォン!!数十メートル先の建物へ叩き付けられ、外壁が大きく崩れ落ちた。
土煙の中から、ベンケイの呻き声が漏れる。
「……くそ……くそくそくそ……!!貴様……!!」
血を吐きながら、ベンケイが瓦礫の中で身体を起こす。先ほどまでとは、完全に立場が逆転していた。
圧倒的な力を誇っていたはずの怪物が、今では一方的に翻弄されている。
覚醒した深海は、そんなベンケイを見下ろしながら、ゆっくりと歩いていく。
その足音が、妙に大きく聞こえた。
やがて深海は、ベンケイの目の前で足を止める。
「───これで分かっただろ?」
静かな声だった。
「今のオレと、お前の実力の差が。」
深海は剣を握り直す。
「もう諦めろ。」
赤い瞳が、真っ直ぐにベンケイを見据える。
「てめぇに、もう勝機はねぇ。」
「……っ。」
ベンケイの身体が震える。怒りなのか。
恐怖なのか。もはや本人にも分からない。
「ふざけるな……。」
拳を握る。
「ふざけるなァァァァァ!!」
血を吐きながら叫ぶ。
「テメェはなんなんだ!!あのお方の力を……俺の力を……こんなに悠々と超えやがって……!!」
声が震える。
「このチートイカれ野郎がァ!!」
その言葉を聞いた深海は、僅かに口角を上げた。
「チートイカれ野郎?笑わせんな。」
深海は、自分の胸へ手を当てる。
「今のオレは、みんなの想いを背負ってるんだ。」
愛菜。翔也。師匠。
そして、これまで深海へ力を託してきた人々。
そのすべてが、今の深海の中にある。
「自分一人で戦ってるんじゃない。」
赤い瞳が、静かに輝く。
「みんなが、オレに力を与えてくれているんだ。」
一瞬だけ、深海の脳裏に愛菜の姿が浮かんだ。
涙を浮かべながら、それでも真っ直ぐに自分を信じてくれた彼女。瀕死になりながらも、自分を守ろうとしてくれた翔也。そして、身体を張って時間を稼いでくれた第二の師匠。
「……愛菜、親友、師匠。」
深海は剣を構える。
「そして、歴代の継承者たちがな。」
その声には、先ほどまでの迷いが一切なかった。
「まあ……オレも、こんなに強くなるとは思わなかったけどな。」
「ぐ……そ……。」
ベンケイは、もう立ち上がることすら出来なかった。
呼吸は荒く、全身は傷だらけで、あれほど誇っていた黒紫色の闘気も、今では弱々しく身体の周囲を漂っているだけだった。
対して深海には、まだ余裕がある。
白髪は風に揺れ、赤い瞳は一点の曇りもなく敵を捉えていた。
深海はゆっくりと剣を持ち上げる。
切っ先が、ベンケイの腹部へ向けられた。
「────終わりだ。」
静かな声と共に、剣先が僅かに下がる。
とどめを刺すために。
長かった戦いを、ここで終わらせるために。
「お別れの時間だ。……テメェは地獄で、自分のした行いを償え。オレは、テメェが地獄で苦しめば、それでいいんだからな。……師匠。これでやっと、約束を果たせますね。……今、トドメを刺しますから。」
深海は静かに剣を振り上げた。
夜の広場を照らしていた街灯の光が、白い刀身に反射する。崩れた建物の瓦礫が散乱し、辺りには未だ戦闘の余韻を示す煙が漂っていたが、深海の意識にはもう何も入ってこなかった。
目の前にいるベンケイだけを見据え、その命を断つために剣を振り下ろす。
これで終わる。
そう思った、その瞬間だった。
────キィンッ!!
甲高い金属音が、夜の広場に響き渡った。
「……!?」
振り下ろしたはずの剣が、途中で止まっている。
深海の目の前には、いつの間にか一人の少女らしき人物が立っていた。
小柄な身体。
幼さすら感じさせる姿。
それにもかかわらず、その存在から漂う異様な気配は、先ほどまで戦っていたベンケイとはまた違う種類の不気味さを持っていた。
少女は片手だけで、深海の剣を受け止めていた。
「……!?なんだ、君は……!!」
深海の赤い瞳が見開かれる。
そして、その姿を見た瞬間に記憶が蘇った。
「……あの時の!」
「ふふ。少しだけ、割り込ませてもらいますわ」
少女は楽しそうに微笑んだ。
まるで目の前で繰り広げられている殺し合いすら、彼女にとっては遊戯の一つでしかないかのような、妙に余裕のある笑みだった。
「……小柳深海くん。あなたの力は素晴らしいものです。ですから私は、もう少しだけ、あなたの力を試したいのです」
そう呟いた瞬間。
少女の指先に僅かに力が入った。
「───っ!」
次の瞬間、深海の剣が軽々と弾き飛ばされた。
刀身が宙を舞い、遠くの石畳へ突き刺さる。
深海は反射的に距離を取った。
少女はそんな深海には目もくれず、その背後へ視線を向ける。
「──鉄壁のベンケイ。まだ終わりではないでしょう?」
瓦礫の中で、ベンケイが顔を上げた。
先ほどまでの圧倒的な威勢はない。
巨体は傷だらけで、全身から血を流し、呼吸も荒い。
何より、強者としての自信に満ちていた瞳が、今は地面へと落ちていた。
「……フリーク……」
悔しさを滲ませた声だった。
ベンケイは拳を握り締めながら、視線を逸らす。
「……正直、今の俺じゃアイツには勝てる気がしねぇ。あのお方の力をもってしても、アイツには勝てなかったからな」
その言葉を聞いた少女は、僅かに眉を寄せた。
「……ベンケイ。あの人のせいにしないで」
「……何?」
「あなたが深海くんに勝てなかったのは、力を使いこなせず、純粋に弱かったからでしょう?」
淡々と告げられた言葉が、ベンケイの胸へ突き刺さる。
「他責ばかりでは、強くなれないよ」
「……ッ」
ベンケイは何も言い返せなかった。
巨大な拳を握り締め、悔しさを噛み殺すように歯を食いしばる。
「俺は……こんなクソガキ二人に煽られるほど、落ちぶれちまったのかよ……。クソが……」
拳が震える。
「俺は、恵まれた体格を持って生まれてきた。誰よりも強者であるために、生まれてきたはずなのに……」
その声には、先ほどまでの狂気とは違う感情が滲んでいた。
悔しさ。屈辱。
そして、自分より遥か上にいる存在を認めざるを得ない敗北感。
ベンケイは完全に俯いていた。
そんな彼の前へ、少女がゆっくりと歩み寄る。
そして、崩れたベンケイの胸へ手のひらを当てた。
「……では、もう一度だけ。あなたの限界を超えてみましょうか」
「……何を……」
少女の口から、言葉が漏れる。
「……*☆♪☆♪°☆$×=○°○=×°○=♪☆」
人間には発音することすら出来ない、奇妙な音。
言葉なのか、呪文なのか、それすら判別出来ない。
ただ、その声が響き始めた瞬間だった。
────空気が変わった。
風が止まる。
瓦礫の隙間から漂っていた煙が、まるで何かに押さえつけられたかのように地面へ沈んでいく。街灯が一斉に明滅し、周囲の空気が異様なほど重くなる。
深海は無意識に目を細めた。
「……なんだ、この感じ……」
ベンケイの身体から、再び黒紫色の闘気が噴き出した。
先ほどまでとは明らかに違う。
濃く重い。
そして、禍々しい。
「……グッ……ガァ……」
ベンケイの身体が大きく痙攣する。
血管が浮かび上がり、筋肉がさらに膨張していく。
それだけではない。全身を覆う闘気が肉体へと食い込み、皮膚そのものが黒紫色に染まっていく。
「ガァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!」
絶叫。広場の空気が震え、周囲の瓦礫が一斉に吹き飛んだ。深海は咄嗟に腕で顔を庇う。
少女は、その暴風の中でも一歩も動かなかった。
やがて、ベンケイの絶叫が止まる。
「……ベンケイ」
少女が静かに口を開く。
「あなたのポテンシャルは大したものです。ですから私が、あのお方の力をさらに引き出してあげましょう」
ベンケイの身体から、さらに禍々しい闘気が溢れ出す。
「その力を使い、小柳深海を完膚なきまでに破壊しなさい」
少女の声が、静かに響いた。
「これは契りです。果たせなければ、与えられた力に身体が耐えきれなくなり、その肉体は内側から崩壊します」
「……ハァ……ハァ……」
ベンケイは荒い呼吸を繰り返しながら、自らの拳を見つめた。
握り締めた拳が、ミシミシと音を立てる。
「おい……お前、ベンケイに何をしたんだ」
深海が少女へ問いかける。
少女は振り返り、楽しそうに微笑んだ。
「深海くん。大したことはしていないよ」
その言葉とは裏腹に、ベンケイから放たれる圧は先ほどとは比べ物にならない。
「ただ、契りを交わして、ベンケイにもっと大きな力を与えただけ。あのお方が授けてくれた力を、私が代わりに増強してあげたの」
少女は指先を軽く振る。
「さっきよりも、だいぶ強くなっていると思うから。頑張ってね」
その笑顔は、あまりにも無邪気だった。
「私は君に、とんでもなく期待してるよ。……愛しの、小柳深海くん」
そう言った瞬間。
少女の身体を白い煙が包み込んだ。
「待て……!」
深海が一歩踏み出す。
しかし、その言葉が届くより先に、少女の姿は煙の中へ溶けるように消えていった。
「……チッ」
深海は舌打ちをして周囲を見渡す。
何処にもいない。
気配すら残っていない。
だが。次の瞬間だった。
「─────ッ!?」
ドンッ!!!
視界が揺れた。理解するよりも早く、深海の身体が吹き飛んだ。何が起きたのか分からない。ただ、腹部に強烈な衝撃が叩き込まれたことだけは理解出来た。
深海は地面を何度も跳ねながら吹き飛び、瓦礫を巻き上げてようやく停止する。
「……ぐっ……!」
口元から血が流れた。
咄嗟に身体を起こし、正面へ視線を向ける。
「……な……」
深海の目が見開かれた。
そこに立っていたのは、先ほどまでのベンケイではなかった。
四本の腕。
さらに肥大化した肉体。
鋼鉄どころか、巨大な装甲を纏ったような異常な硬さを持つ身体。全身から溢れ出す黒紫色の闘気は、まるで生き物のように蠢いている。
その四本の腕をゆっくりと広げ、ベンケイが笑った。
「これか……」
その瞳は血走り、狂気に染まっていた。
「これが、あのお方の真の力……!」
ベンケイは自らの身体を見下ろし、拳を握り締める。
「力が……溢れて、こぼれ落ちそうなほどだ……!」
身体の奥底から湧き上がる力に酔いしれるように、ベンケイは笑い始める。
「……いい気分だぜ……!!」
その笑い声が、夜の街へ響き渡る。
「今ならなんでも出来そうだ!!手始めに、この東商を全て破壊し尽くしてやるのも悪くねえ!!!!」
深海はゆっくりと立ち上がった。
腹部に残る痛みを確かめるように手を添える。
先ほどまでとは、明らかに違う。
たった一撃で吹き飛ばされた。
しかも、構える暇すらなかった。
「……なるほどな」
深海は口元の血を手の甲で拭った。
それでも、その瞳から焦りは消えていない。
むしろ、どこか冷静だった。
「覚醒したオレが、一撃で吹き飛ばされるとはな」
ゆっくりと立ち上がる。
身体の奥には、まだ青眼の構えによる強化が残っている。先ほどまで感じていた圧倒的な力も、未だに身体の中を駆け巡っていた。
だが、深海には分かっていた。
────この力を保っていられる時間は、もう長くない。
「……はは」
深海は小さく笑った。
「化け物が、大化け物に変わっちまったな」
そして胸へ手を当てる。彼女の温もりを思い出す。
自分を信じてくれた声。
最後に伝えてくれた言葉。
そして、自分の胸へ預けられた想い。
「……悪い、愛菜」
深海は目を閉じ、僅かに息を吐いた。
「もう少しだけ、お前の生命エネルギー……使わせてもらうぜ」
赤い瞳が再び開く。
その視線が、四本の腕を持つ怪物を真っ直ぐに捉えた。
そして深海は、ゆっくりと足を引く。剣を構える。全身の神経を研ぎ澄まし、どんな攻撃にも対応出来るように、意識の全てを目の前の敵へ集中させる。
先ほどまでとは違う。
相手はさらに強くなった。
自分の覚醒すら、一撃で吹き飛ばすほどに。
それでも。深海の瞳には、恐怖も迷いもなかった。
「……来いよ」
静かな声が、広場に響く。
「今度こそ、真正面から叩き潰してやる」
ベンケイが四本の腕を広げる。
「クソガキィィィィィィィ!!!!!!」
再び、黒紫色の闘気が爆発する。
地面が大きく陥没し、周囲の瓦礫が一斉に宙へ舞い上がった。
その瞬間。遠くから、瓦礫を蹴散らしながらこちらへ向かってくる足音が響いた。
深海が僅かに視線を向ける。
夜の闇の向こう。
こちらへ向かって、一人の人物が全力で走ってくる。
そして────
新たな救世主が、戦場へ駆けつけた。
「───全てを癒す水の恵みよ、水の流れに導かれし治癒術よ。この場にいる英雄たちの傷を、浄化せよ。」
凛とした声が、崩壊した広場へ響き渡った。
その瞬間、術者を中心に眩い光が広がり、夜の闇を白く塗り潰していく。淡い光の粒子が空中を舞い、傷ついた討伐士たちの身体へ次々と吸い込まれていった。
しばらくすると、先ほどまで死闘を繰り広げていた第二の師匠を始め、翔也、そしてまだ僅かに息のあった討伐士たちが、一人、また一人と身体を起こしていく。
「……っ、なんだ……俺……てっきり、もう……ここで……」
翔也が自分の身体を確かめるように見回し、驚いたように目を見開く。
あれほどまでに負っていた傷が、完全にとはいかないまでも、戦闘を続行出来るほどにまで癒えている。身体を動かしてみても、先ほどまで感じていた激痛が嘘のように引いていた。
「はっ……こんなイカれた最強治癒術が使えんのは、お前くらいしかいねえな」
師匠は、少し離れた場所に立つ女性へ視線を向ける。
「─────グライス」
そこに立っていたのは、四英傑の一人に数えられ、治癒術の天才とまで称される女性。
グライス・イルゼだった。
「お久しぶりです」
グライスは穏やかに微笑みながら、周囲を見渡した。
「少し遅くなってしまいましたが、間に合って良かったです。」
そう言いながらも、その瞳には喜びだけではないものが浮かんでいた。彼女の視線の先には、救うことが出来なかった討伐士たちがいる。
どれだけ強大な治癒術を使おうとも、既に命を失った者を蘇らせることは出来ない。
「……討伐士のみなさん。残念ながら、私の力で救えなかった人たち……いえ」
一度、言葉を止める。
「輝かしい戦士たちを、本部まで運んでくださいますか? 必ず後で、国を挙げて弔いをするためです。どうか、ご協力をお願いします」
グライスの声に、討伐士たちは静かに頷いた。
そして彼女の指示を受け、それぞれが動き始める。
負傷者を支える者。
倒れた仲間を運ぶ者。
そして、もう二度と動くことのない仲間を、丁寧に運び出す者。
戦場だった広場に、少しずつ人の動きが戻っていく。
そんな中。深海は、愛菜の姿を探していた。
僅かな期待を込めて、彼女が運ばれていく方向へ視線を向ける。
もしかしたら。
もしかしたら、あの治癒術で。
そんな淡い期待を抱いていた。
だが。
愛菜が起き上がることはなかった。
女性の討伐士によって、愛菜の身体はすぐに本部へ運ばれていく。
「……愛菜……」
深海は、その姿をただ目で追っていた。
声を掛けることも出来ない。引き止めることも出来ない。ただ、遠ざかっていく彼女を見つめることしか出来なかった。
そして、深海の目尻に僅かな涙が浮かぶ。
それでも、深海は涙を拭わなかった。
「ふぅ……グライス。お前はどうするんだ?」
第二の師匠がグライスへ問い掛ける。
「……ここに残りますわ。私は最後、あの青年に治癒術をかけるついでに話をしてきます。」
グライスはそう答えた後、少し離れた場所に立つ白髪の青年へ視線を向ける。
「ですから、ここはあそこにいる白髪の青年と私だけで十分です。あなた様も、本部へ戻ってください」
「分かった」
師匠は一度頷いた。
だが、すぐに深いため息を吐く。
「……でも、そういう訳にもいかねえんでね」
師匠は深海の方を見る。その目には、弟子を心配する師としての感情が滲んでいた。
「ふぅ…俺の愛した愛弟子を探さねぇといけねえからな」
そして、深海を見つめる。
「あそこにいる青年……小柳深海のことを、頼んだぞ」
「ええ。任せてください」
師匠はグライスの肩を軽く叩くと、そのまま走り去っていった。
残されたグライスは、僅かに微笑む。
そして、ゆっくりと深海の元へ歩いていった。
その様子を見ていたベンケイが、四本の腕を組みながら口を開く。
「テメェは……まさか、四英傑。グライス・イルゼか」
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「かつて神龍の封印に貢献した、治癒の天才……。テメェがここへ来ることは想定外だったぜ」
ベンケイは周囲を見渡す。
「おかげで、俺らの魂をいただく計画が、また面倒になっちまったじゃねェかよ」
そう言いながらも、その表情に焦りはない。
むしろ楽しそうだった。
まるで、まだまだ遊べる獲物を見つけたかのように。
グライスはそんなベンケイを一瞥した後、深海へ視線を戻す。
「小柳くん」
深海の隣まで歩み寄り、静かに口を開いた。
「彼は、もう異質中の異質です。人間であることを捨てて、強大な力を得ている状態……正直に言って、今の彼に勝てる確率は、そんなに高くないと思います」
そして、深海の目を見る。
「だから、退くという選択肢も取った方がいい」
深海は何も言わず、ベンケイを見つめていた。
白髪は夜風に揺れている。覚醒した状態は未だ維持されているものの、呼吸は少しずつ荒くなっていた。
体力の限界が、確実に近付いている。
「分かっています……」
深海は静かに答えた。
「でも、ここで倒しておかないと、更なる被害に繋がります」
そして、僅かに拳を握る。
「それに……愛する女からエネルギーを貰ってる以上、オレの中で逃げるなんて選択肢は、最初からないので」
その言葉を聞き、グライスは僅かに目を細めた。
「……その心意気は立派だけど、策はあるの?」
グライスは深海の身体を見ながら続ける。
「小柳くんの体力も、もう限界に近い。今の私には、君の体力を完全に回復させてあげられるほどの力も残っていないわ。さっき、みんなを回復させた時にほとんど使ってしまったからね」
「おいおい、作戦会議か?」
ベンケイが会話へ割り込む。
「いいぜ、いいぜ? テメェらが例え束になろうと、俺には勝てない!!今の俺様は最強!!無敵だ!!」
四本の腕を大きく広げる。
「ふっはははははははははははは!!」
魔王のような高笑いが、崩壊した広場へ響き渡った。
深海はその声を聞きながら、ゆっくりと右手を握り締める。
「───それが、一つだけ考えがあります。」
グライスが深海を見る。
「……何?」
「オレのこの考えが通用すれば、一撃でベンケイを倒せると思います」
深海は右手へ意識を集中させた。
すると、白い光が指先から滲み出し、徐々に右拳全体を包み込んでいく。
「……ただ、自分の体力も限界が近い。どっちみち、この賭けに出るしかありません」
白い光がさらに強くなる。
それは、単なる覚醒による力とは違っていた。
今まで深海が受け取ってきた、数多くの想いが一点へ集まっていく。
「……それって」
グライスが目を見開く。
深海は右拳を見つめながら、静かに答えた。
「みんなの力を、この拳に乗せるんです」
右拳を握り締める。
「歴代継承者が、オレの本能の中で力を与えてくれている。そして、その力を全部、この右拳へ集中させます」
白いオーラが、さらに濃くなる。
「この拳がアイツの身体を貫通すれば……恐らく、一撃で倒すことが出来ると思います」
「歴代……?継承者?」
グライスは少し困惑したように首を傾げる。
「そこら辺は、まだ私にはよく分からなかったけど……」
それでも、深海の表情を見れば分かる。
彼には、彼なりの勝算がある。
「小柳くんにも、ちゃんと策があるってことね」
「ですが……」
深海はベンケイを見据える。
「今の覚醒したベンケイの懐に入り込めるかどうか。それが、この作戦の全てです」
四本の腕。異常な速度。異常な耐久力。
そして、先ほど深海自身を一撃で吹き飛ばした圧倒的な攻撃力。正面から挑めば、右拳を叩き込む前にこちらが倒される。
「今のベンケイは、異質そのものです」
深海の赤い瞳が、真っ直ぐに怪物を捉える。
「だからこそ、懐に入り込む。そして、一撃を叩き込む」
白いオーラが右拳を包み込む。
「それが出来れば……勝機はある」
深海は、既に覚悟を決めていた。
二、三発ぶっ飛ばされようと立ち上がり、何度地面に叩き付けられようと、絶対に一撃を喰らわせる。たとえ腕が折れようと、足が動かなくなろうと、最後の最後まで前へ進み続ける。
それだけの覚悟を、既に決めていた。
そんな彼の肩に、グライスはそっと手を置いた。
淡い光が、グライスの手のひらから溢れ出す。
白く柔らかな光が深海の身体を包み込み、覚醒によって消耗した身体へと治癒の力が流れ込んでいく。完全な回復には程遠い。
それでも、全身に残った傷を塞ぎ、止まりかけていた出血を抑え、これから始まる戦いに耐えられるだけの状態へと身体を引き戻していく。
深海は、身体の奥へ流れ込んでくる温かな力を感じながら、ゆっくりと拳を握った。先ほどまで全身を蝕んでいた痛みが、僅かに和らいでいる。
身体はまだ重い。
疲労も消えてはいない。
それでも、戦える。それだけで十分だった。
「ふう、これでよし。…では私はこれから、別の戦場に行って治癒術士と共に行動します。これくらいの治癒で大丈夫でしたか?」
「もちろんです。本当に助かりました。ありがとうございます。これで、心置き無く奴と戦える。」
「…必ず、勝って戻ってきてくださいね。信じていますから。」
その言葉を残し、グライスは踵を返す。
そして、別の戦場へ向かうために走り去っていった。
深海は、その背中をしばらく見つめていた。
やがて、静かに視線を前へ戻す。
戦場には、深海とベンケイだけが残されていた。
周囲には、数時間に及ぶ戦闘の爪痕が生々しく残っている。
砕けた石畳。崩壊した建物。
道路に刻まれた無数の亀裂。
ところどころから煙が立ち上り、瓦礫の隙間では未だに小さな炎が揺らめいていた。
そして、空を見上げれば、夜の闇が僅かに薄れ始めている。もうすぐ朝が来る。
あれほど長かった戦いも、終わりへ近付いていた。
深海は、そんな景色を一度だけ見渡してから、正面に立つ怪物へ視線を戻した。
ベンケイは、四本の腕をゆっくりと動かしている。
その四本全てが、まるで別々の意思を持っているかのように僅かに動き、それぞれ異なる角度から深海を捉えていた。
隙がない。
先ほどまでとは、明らかに違う。
深海は、その異様な構えを見ながら、口を開いた。
「それで?テメェはなんでオレとグライスさんの事が終わるまで待ち続けた。舐めプでもしてるつもりか??隙だらけで攻撃することも出来たはずだろ。」
「舐めプ?ハハッ、面白ぇ言い方だな。確かにその言い方でもあってるはあってるぜ。…俺はただ、全力のテメェを叩きのめしてぇんだよ。今まで散々してもらっちまったからなぁ。返してやんねぇとな??」
ベンケイは、四本の腕を広げる。
その姿は、まるで深海の逃げ道そのものを塞ぐようだった。
上から来ても対応出来る。
横からでも対応出来る。
懐へ潜り込もうとしても、別の腕が待っている。
背後へ回ろうとしても、四本の腕が互いに補完し合う。
正直、この中を掻い潜り、一撃を叩き込むのは無理に等しい。深海は、黙ったままベンケイの身体を観察していた。
肩の動き。腰の位置。足の向き。腕の角度。呼吸の速度。視線。その全てを、一つずつ確認していく。
何処かにあるはずだ。
どれだけ完璧に見える構えでも、攻撃を仕掛ける瞬間には必ず僅かな隙が生まれる。
深海は、その一瞬を探していた。
今のベンケイと正面からやり合えば、確実に消耗する。
それだけは避けなければならない。
今回の目的は、ベンケイと長時間戦うことではない。
たった一撃。その一撃に、全てを懸ける。
『ここでベンケイとやりあって消耗したら治癒術の意味が無い。やるなら最大出力でぶつけねえといけねえから、今力を溜めて、どうにかして奴にぶつけねえと。…覚悟は決めただろ小柳深海。腕が折れても足が折れても、進み続けろ。』
深海は、ゆっくりと右手へ力を集め始める。
白いオーラが、右手を包み込んでいく。
最初は僅かな光だった。しかし、集中するほどに光は強くなり、拳の周囲へ渦を巻くように集まっていく。
その力は、ただ強いだけではない。
愛菜が託してくれた力。翔也が繋いでくれた想い。
師匠が遺してくれたもの。
そして、歴代の継承者たちが深海へ繋いできたもの。
その全てを、この一撃へ集める。
深海は右拳を見つめながら、静かに呼吸を整えた。
「…あ?なんだその右手は。」
ベンケイが、深海の右拳へ視線を向ける。
「簡単に言えば、テメェを地獄に送る、最強にして最後の希望さ。」
「面白い。…じゃあ、俺様の攻撃を避けられる自信があるって事だな!!死ね!!!」
次の瞬間。地面が爆発した。
ベンケイの巨体が、一瞬にして深海の視界から消える。
直後。四本の腕が、ほぼ同時に襲い掛かってきた。
逃げ道を塞ぐように下方からも拳が迫る。
一本でも十分すぎるほどの威力。
それが四本。
しかも、四本全てが異常な速度で動いている。深海は右拳への集中を一切崩さず、身体だけを僅かに傾けた。
拳が頬を掠める。次の腕が迫る。
深海は身体を捻り、その拳を紙一重で躱す。
直後、三本目。身体を沈める。
頭上を拳が通過し、背後の建物へ直撃した。
轟音と共に、壁が大きく崩れ落ちる。
深海は、その瓦礫を横目に見ながら、さらに一歩踏み込んだ。しかし、そこへ四本目の腕が迫る。
深海は咄嗟に左足を振り上げ、その腕の軌道を蹴りで僅かに逸らした。
拳が肩の横を通過する。
風圧だけで服が大きく揺れた。それでも、深海は止まらない。右拳へ力を集中させながら、四本の腕を紙一重で躱し続ける。
避ける。逸らす。受け流す。
時には蹴りを使って軌道を変える。
それでも、ベンケイの攻撃は止まらない。
「ハハハハハハ!!どうしたァ!!」
ベンケイが叫ぶ。
「その右手を守りながら、俺様の攻撃を全部避け切れると思ってんのかァ!?」
深海の額から汗が流れる。
右拳への集中を維持している以上、両手を使って防御することは出来ない。
だからこそ、身体能力と反射神経だけで凌ぐしかない。
それでも、深海は避け続ける。拳が頬を掠める。
蹴りが髪を揺らす。拳が背後の地面を砕く。
四本の腕が、次々と深海の命を狙って襲い掛かる。
しかし、その全てを深海は僅かな動きだけで躱していく。
まるで、ベンケイの攻撃が見えているかのように。深海の赤い瞳は、一切揺れていなかった。
焦りもない。恐怖もない。
ただ冷静に、相手の動きを見ている。
だがそれでも、人間の反射神経には限界がある。
四本の腕を相手に、一切の防御を捨てて避け続けるなど、いつまでも出来るものではない。
ほんの僅か。深海の足が遅れた。
「まずい…!」
その一瞬を、ベンケイは見逃さなかった。
「貰ったぜ!!くたばれ!!」
四本の腕のうち、一つが深海へ向かって一直線に伸びる。
拳が迫る。避けるには遅い。
右拳への集中を解除すれば防御は出来る。
だが、それでは最後の一撃を失うリスクもある、もしくは出力が足らずに倒せない可能性もある。
深海は歯を食いしばった。それでも右手を開かない。
力を込めたまま、拳を握り続ける。
拳が迫る。あと僅か。
もう避けられない。
その瞬間────
ボコッ。鈍い音が響いた。
深海へ直撃するはずだったベンケイの腕が、横方向へ弾き飛ばされた。
「……!?」
ベンケイの目が大きく見開かれる。
深海もまた、一瞬だけ動きを止めた。何が起きたのか、理解出来なかった。
そしてゆっくりと、ベンケイの腕が弾き飛ばされた方向へ視線を向ける。そこには。今まで、この戦場では一度も姿を見せていなかった彼女が立っていた。
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