9 限界の月曜日
声の主は、直属の上司・黒田課長。四十代前半。常に眉間にしわを寄せた、サイズの合っていないくたびれたスーツの男だ。エリオットのスーツが魔法で仕立てた完璧なオーダーメイドなのに対し、黒田のスーツは量販店の既製品が六年間アイロンを拒否した末路である。
「この前頼んだ先方への報告書、まだ終わってないの?」
「すみません、金曜の夕方に仕様変更の連絡が来て、今朝から修正を——」
「言い訳はいいから。午前中に仕上げて」
私の説明を一言で切り捨て、黒田はさっさと自分のデスクに戻っていく。
自分のデスクに戻る、すなわちネットサーフィンに戻る。あの角度はヤフーニュースだ。もう六年間同じ角度で見ているので、私にはわかる。
言い訳じゃない、事実だ。
金曜の定時直前に「先方の要望が変わった」と仕様変更を突きつけてきたのは黒田本人だ。変わったのはクライアントの要望ではなく、黒田の気分だということは、この課の全員が知っている。知っていて、誰も指摘しない。
かつて指摘した先輩は、半年後に「自主退職」した。弊社では、黒田に逆らう者から順番に消えていく。自然淘汰ではなく人為淘汰だ。
その先輩は最後の日、私にだけ小さく頭を下げて帰っていった。「ごめんね」の意味が、当時はわからなかった。今ならわかる。次はあなただ、という意味だった。
パソコンの画面に向き直り、黙って手を動かす。
斜め向かいの佐藤さんが、一瞬だけこちらを見た。目が合うと、すぐに逸らされる。
申し訳なさそうで、でも「助けたら次は自分が死ぬ」という諦めの混じった目。
わかってる。佐藤さんのせいじゃない。この課はそういう場所だ。
「奈々先輩、大丈夫ですか?」
ふい、と隣の部署から手伝いに来ている後輩、白峰サヤカが顔を出した。ゆるふわな笑顔の新人さんだ。
「田中の案件、私、資料のコピーくらいならお手伝いしますよ?」
「……ありがとう、白峰さん。でも大丈夫よ」
なぜだろう? なんでか彼女の笑顔を見ると違和感を覚える。良い子なんだけどな?
§ § §
午前十時半。
「如月。ちょっと来い」
黒田に呼ばれ、会議室に向かう。嫌な予感しかしない。
嫌な予感が外れたためしがない。前世からずっとだ。前世も今世も、呼び出しにろくなことがない。前世の場合は呼び出しの先が処刑台だったが、あれもまあ嫌な予感は当たっていた。
「これ、田中の案件なんだけどさ」
黒田がテーブルの上に書類の束を置いた。
分厚い。前世の外交文書の束を彷彿させる厚みだ。あっちは羊皮紙だったが、こっちはA4コピー用紙。進歩しているのか退化しているのか判然としない。
「田中が先週から体調崩して休んでるの、知ってるよな?」
「はい」
「これ、田中が引き継ぎなしで持ってた案件。来週のクライアントミーティングまでに仕上げなきゃいけない。お前がやって」
一瞬、言葉が出なかった。
出なかった理由は簡単で、あまりにも理不尽すぎて脳がフリーズしたからだ。パソコンで言えばブルースクリーン、エリオットで言えばルンバに遭遇した時の状態である。
「……あの、私は今、別の案件を三つ並行で抱えていまして」
「そう。だから頑張って」
「頑張ってって……物理的に時間が足りません。田中さんの案件は規模も大きいですし、引き継ぎもなしでは——」
「俺に言われても困るわ。田中が休んだのは俺のせいじゃないし」
田中さんが体調を崩した原因が誰にあるかは、全社員が知っている。知っていて、誰も指摘しない。繰り返しになるが、弊社はそういう場所だ。
「お前、他に仕事振れるやつ知ってる? この課で一番暇なの、お前でしょ」
暇。
……暇?
毎日終電まで残業して。金曜の夕方に仕様変更を食らって。土曜の夜に電話をかけられて。日曜日は月曜の恐怖で胃が痛くて。
この状態が「暇」
反論の言葉なら、頭の中に百個ある。
私が今抱えている案件の一覧。今月の残業時間。お前が先週「俺の名前で」提出した資料の枚数。突きつけてやりたい数字は、いくらでもある。
でも、それを口にした瞬間の黒田の顔も、簡単に想像できてしまう。
不機嫌そうに眉を寄せて、「で?」と言うのだ。数字は、この男には通じない。通じるなら六年前に通じている。
頭の中で何かがミシリと音を立てた。
前世で宮廷の横暴に耐え続けた日々を思い出す。あの時だって、こうやって少しずつ少しずつ、限界のラインが押し下げられていった。気づいた時には、そのラインがどこにあったのかすら思い出せなくなっていた。
でも、反論は飲み込んだ。
前に一度だけ「これ以上は無理です」と言ったことがある。その時、黒田は人事部長と飲み友達であることを匂わせながら「まあ、頑張れないなら仕方ないけどね」と微笑んだ。
あの微笑みは、前世の聖女の微笑みに似ていた。優しい顔で、人を殺す類の笑顔だ。
「……わかりました」
「よろしく。あ、あとさ、今日の議事録も頼むわ」
「今日の議事録は私の担当では——」
「担当とかいちいち面倒だから。お前がやったら早いでしょ」
会議室を出る時、足が重かった。田中さんの書類を両手で抱える。
自分のデスクに戻ると、メールの未読が十二件に増えていた。会議室にいた十五分の間に十二件。一分に一件弱。スパムフォルダかここは。
全部、私宛だ。
正確にはCCで入れられているだけのものもあるが、黒田がことごとく「これ如月に確認させますんで」と返信している。私の名前を出すだけの簡単なお仕事。黒田のデスクワークの九割がこの「如月に振る」作業で構成されているのではないか。
§ § §
昼休み。
弁当を買いに行く時間もなかった。
空腹は二時間前にピークを越えて、今はもう何も感じない。胃が諦めたのだ。賢い臓器だと思う。私より先に学習を終えている。
デスクで作業を続けながら、ふと思う。
エリオット・ヴァン・クリフォード。
氷の美貌の無表情。無駄に顔がいい、無駄にチートな大魔法使い。
前世で私を殺し、今世ではなぜか私の風呂を覗き(元)、エアコンのリモコンを分解し、ルンバと友情を育み、毎晩の夕食を作っている男。
あの男が作る空間だけが、今の私の安全地帯だ。
前世で私を殺した男が作るサンクチュアリに、今世で縋っている。
我ながら皮肉な構図だが、少なくともあっちの世界には黒田課長がいない。それだけで、あの六畳一間(内装:王宮)の方が百倍マシなのだ。
「如月ぅ、先方から電話。お前直接話して」
黒田の声が、束の間の逃避を遮った。
「はい」と答えて受話器を取り、顔に笑顔を貼りつけた。前世から使い込んだ、完璧な営業スマイル。公爵令嬢時代の社交界仕込みである。役に立つ場所が壊滅的に違うが。
夜まで、あと八時間。
あの温かいご飯と、ちょっとイミフなイケメンが待つ部屋まで、あと八時間。
§ § §
午後十一時四十五分。
終電の一本前に滑り込んだ。
車内はガラガラだった。向かいの座席では、同じく終電組のサラリーマンが魂を抜かれた顔で座っている。仲間だ。二十一世紀の日本で最も連帯感が生まれる瞬間は、終電の車内である。
お互いに名前も知らない。でも、あの顔は今日も戦って負けた顔だ。私と同じ。明日も戦って、たぶんまた負ける顔だ。
今日処理したメール:六十七件。電話:十四本。黒田に押し付けられた田中さんの案件:一ページも進まず。自分の案件:全て締め切りオーバー。昼食:なし。夕食:自販機の缶コーヒー(三本目)
データにすると更に絶望的だ。カロリー摂取量だけで見れば、エリオットが瞑想してた方がマシなのではないか。少なくともあっちは魔力で生きていける。こっちはカフェインで生き延びているだけだ。
窓の外を、見覚えのある夜景が流れていく。
六年間ほとんど毎日見てきた景色のはずなのに、いつも記憶に残らない。たぶん、見ていないからだ。視界に入れているだけで、何も見ていない。私の一日から「見る」という行為が消えて、もうどれくらい経つんだろう。
「ただいま……」
ドアを開ける。
いつもの温かい光と、食欲をそそる匂いが——。
だめだった。
今日は、それを受け止める余力が残っていなかった。
靴を脱ぐ動作すら億劫で、私は玄関の段差にそのまま座り込んだ。前世の公爵令嬢がこの姿を見たら「立って。床に座るなんて使用人以下よ」と叱られるだろう。知ったこっちゃない。使用人以下で結構だ。
「……カレンシュ?」
エリオットが駆け寄ってくる気配。
でも顔を上げられない。上げたら、何かがこぼれそうだった。涙か、愚痴か、きっとその両方だ。
「疲れた……」
たった三文字。それだけで喉が震えた。
情けない。黒田にどやされて、仕事を押し付けられて、昼飯も食えなくて。全部「いつものこと」なのに、今日はなぜか蓋ができなかった。
蓋というのは便利なもので、社会人になってから六年間ずっとお世話になっている心理的防衛機制なのだが、たまに不良品が混じる。今日がそれだ。
「立てるか」
エリオットの声が、すぐ近くで聞こえた。
見下ろすのではなく、同じ高さに屈んでいた。この男は変なところで気が利く。変なところ以外(千里眼覗きとか洗濯機爆破とか)では壊滅的だが。
「……うん。大丈夫」
嘘だ。でも「大丈夫」以外の日本語を忘れた。
ブラック企業で六年間「大丈夫です」と答え続けた結果、それが自動応答システムになってしまった。便利で、哀しくて、そして多分もう壊れかけている呪文だ。
エリオットは何も言わず、私の手を取って立たせてくれた。
そのまま、リビングの椅子に座らせた。手順が完璧だ。毎晩やっているわけではないのに、まるでマニュアルがあるかのように淀みない。
あるいは前世でも、こうやって誰か(私?)を椅子に座らせたことがあるのかもしれない。考えたくないので考えない。
「食事は?」
「食べた」
嘘だった。昼も夜も食べていない。コーヒー三本しか摂取していない。
「嘘だな」
静かに断言された。
「千里眼で見てたでしょ」
「見ていない。入浴に限らず、プライバシーを侵害する行為は全て控えると決めた。だが——」
エリオットは、ほんの少しだけ眉を顰めた。
「缶コーヒーの匂いしかしない人間が『食べた』と言っても、信憑性はない」
「……探偵かあんたは」
返す言葉がなかった。嗅覚でバレるとは思わなかった。千里眼を封じられたら鼻に頼る男。犬か。るんすけの飼い主だけある。
「食事は後でいい。先に、これを」
エリオットが私の手を取り、掌を上に向けさせた。
そこに自分の手を重ねる。
ぽわ、と温かい光が二人の掌の間に灯った。
「っ……」
――その光が、じわりと、私の中に滲んだ。




