10 「すまない」しか言えない
全身が、ほどけた。
肩に層になって溜まっていたコリが、シャーベットみたいにシャリシャリとほぐれていく。頭の奥で張り詰めていた鈍痛が緩み、目の裏の鉛が抜けていく。
回復術式。身体接触による直接伝導の、深い癒やし。
「……なにこれ。なにこれ……」
反則だ。
黒田の理不尽に十四時間耐えた身体が、数秒で修復されていく。この魔法を厚生労働省に提出したら日本の労働環境が変わるのではないか。変わらないか。厚生労働省自体がブラックだし。
数分間、何も話さなかった。
会話の必要がなかった。
彼の大きくて硬くて、でも温かい手と、穏やかな光だけが、今日一日で壊れかけた何かを静かに修復していった。
手のひらから伝わる体温が、妙に確かだった。
今日一日、私は誰にも触れられていない。怒鳴られて、押し付けられて、無視されて、でも誰も私に触れなかった。人の手の温度というものを、何ヶ月ぶりかに思い出した気がした。
§ § §
気がついたら、テーブルの上にスープが置かれていた。
透き通った琥珀色。淡い湯気が立ち昇っている。
一口すすった瞬間、わかった。
これは「食べられない人のためのスープ」だ。味も量も極限まで削ぎ落として、ただ温かさと栄養だけを届けるように設計されている。胃を攻撃しない程度に優しくて、でも確かに体の芯まで染み渡る旨味。
きっと魔法もかかっているのだろう。飲むほどに体が温まり、疲れが和らいでいく。
具はほとんど入っていない。たぶん、わざとだ。今の私に噛む元気もないことを、この男は見抜いている。
「……おいしい」
声が掠れた。
こんなスープで泣きそうになるのは、疲労のせいだ。絶対に疲労のせいだ。断じてこの男の気遣いに感動したからではない。
「どうしてあんたは」
思わず口をついて出た。
「……たまに、そんな優しい目をするの。前世であんなことしたくせに」
エリオットの手が、ぴくりと止まった。
長い沈黙。
やがて、彼の右手が、ゆっくりとスーツの胸元を掴んだ。
心臓の上を。何か灼けるような痛みに耐えるように。
口を開きかけて——閉じた。
もう一度開きかけて——また、閉じた。
口の中で何かを必死に形にしようとして、それがどうしても出てこないような、苦しい顔だった。
そしてただ一言。
「……すまない」
それだけだった。
たった四文字で全てを終わらせた。いや、終わらせたのではない。それしか言えなかったのだ。
前世で何があったのか。本当はどういうつもりだったのか。胸を引き裂く痛みが、真実の一切を封じている。
もちろん、私にはそんな事情はわからない。
想像するだけだ。
ただ、図星をつかれて言い訳もできない男が、苦し紛れに謝ったのだと——そう解釈するしかなかった。
「……別に。謝ってほしいわけじゃないし」
スープを最後まで飲み干して、私は立ち上がった。
お皿を片付けようとしたら、エリオットが「私がやる」と遮った。
「お風呂、入ってくるね」
「ああ。結界は展開してある」
「……ありがとう」
最後の一言は、ほとんど無意識に出ていた。
浴室のドアを閉めた後で気づいて、少しだけ後悔した。
前世で自分を殺した男に、「ありがとう」なんて。
それも今日、二回目だ。一回目はルール交渉の時。二回目が今。
このペースで行くと、一ヶ月後には日常的に感謝している自分がいそうで、それはそれで恐ろしい。
……前世の自分に謝ろう。色々と。
ハーゲン公爵家のカレンシュお嬢様。あなたの仇は、今うちの台所で皿を洗っています。しかもエプロン姿で。どうしてこうなった。
§ § §
土曜日の朝。
今日は珍しく休日出勤がない。やっほー!
珍しく目覚ましより先に目が覚めた。平日は六時間睡眠が上限の社畜OLが、八時間も眠れたのは奇跡だ。エリオットの回復魔法のおかげかもしれないし、単に限界を超えて体が強制シャットダウンしただけかもしれない。
どちらにせよ、目覚ましなしで自然に目が覚める朝というものを私は何年ぶりに経験しているんだろう。カーテン越しの光がただ明るいというだけのことが、こんなに贅沢だなんて知らなかった。
ぼんやりと天蓋付きベッドの中で天井を見上げる。金糸の刺繍が朝日に輝いて、ここが六畳一間であることを一瞬忘れさせる。
この一週間、色々ありすぎた。
黒田に十四時間酷使された月曜日。缶コーヒー三本で生き延びた夜。帰宅した私を回復魔法とスープで蘇生してくれたエリオット。
ホント、このエセイケメン、いつまでここに居るつもりなんだか。
まあ、助かってるのは間違いないから、いいか。
§ § §
起き上がって冷蔵庫を開ける。
正確には、冷蔵庫の中にエリオットが構築した六次元収納空間を開ける。見た目は普通の冷蔵庫だが、中は異次元のパントリーが広がっている。量子物理学もびっくりだ。
……足りない。
卵と牛乳が切れていた。そして——。
「プリンがない」
思わず声に出た。
ピッチンプリン。この世界が生んだ奇跡の食べ物。前世のアルヴァリウス王国には存在しなかった、カラメルソースと滑らかな卵の調和。あれだけは冷蔵庫に常備しておかないと落ち着かない。
声を大にして言いたい。プリンは偉大だ。三百円でちゃんと幸せになれる。前世の宮廷晩餐会のデザートには金箔がかかっていたけど、ピッチンプリンの滑らかさには勝てていなかったと断言する。
「プリン……?」
「買い出しに行く。あと卵と牛乳も」
「カレンシュ。卵の備蓄が——」
「だから知ってるって言ってるでしょ。ついてきて」
エリオットがリビングに現れた。今日も完璧に仕立てられた魔法製のスーツ姿だ。休日くらいカジュアルな格好をしてほしいが、この男のワードローブは魔法スーツしかない。ドレスコードの概念が絶望的に偏っている。
「ついてきて」
「護衛か」
「監視。あんたを一人にすると、エアコンのリモコンを分解するから」
この前、留守中にリモコンを「この小さな板は何かの封印具か」と言って裏蓋を開け、電池を取り出して精密に観察していた前科がある。電池を「小型の魔力炉ではないか」と真顔で言われた時のブルースクリーンは忘れない。
ちなみにリモコンは結局元に戻せたが、なぜかテレビの反応速度が良くなった。直すな。改良するな。メーカー保証が消えるでしょ。
「あれは調査だ。この世界の技術を理解するためには——」
「いいから靴履いて」
エリオットは少し考えてから、玄関で靴紐を完璧な蝶結びにした。どこで覚えたのか聞いたら「観察した」と言う。何を? 誰を? 怖いから深掘りはしない。
そして私たちは街に出る。
いや、その後かなりとんでもないことになるのだけれど、今の私にはそれを知る由もなかった。




