11 加齢臭事件
最寄りのコンビニ。
私が先に立って入り口に向かう。
――ウィィィィン。
「っ!」
自動ドアが開いた瞬間。
エリオットが反射的に私を庇うように飛び出し、左手を前に突き出した。一瞬、彼の掌に青白い光が走りかけて――すぐに消えた。
「退がれ、カレンシュ! 魔力で起動する透過の障壁だ。何者かが術を仕込んで――」
「自動ドア!!」
「センサーで近づいたら勝手に開くだけの! ただの! ドア!!」
「……じどう?」
「自分で動くドアって意味!! 魔法でもなんでもないの!!」
エリオットは不審そうに自動ドアを見上げ、おそるおそる手を伸ばした。
センサーが反応して、ドアがまた開く。
引っ込めると、閉まる。
伸ばすと、開く。
引っ込めると、閉まる。
「…………」
子供か。
五回ほど繰り返したところで、ようやく満足したらしい。
「なるほど。魔力を用いず、物理法則のみで障壁を開閉する術式か。この世界の技術者は、なかなかに侮れないな」
「技術者は侮れないけど、あんたは侮れるわ。入って」
──ピンポーンパンポーン♪
「なっ!」
「入店音!!」
「お客さんが来ましたよーって、お店の人に知らせるための音楽なの! それだけ! お願いだから迎撃しないで!!」
エリオットは天井のスピーカーを警戒の目で見上げたまま、ゆっくりと入店した。最強の魔法使いの隙のない足取りが、コンビニの蛍光灯の下では完全に不審者のそれだった。
§ § §
調味料コーナーで醤油を選んでいる間、エリオットをお惣菜コーナーで待たせた。
これが間違いだった。
突然、店内によく通る低音の美声が響き渡った。
「カレンシュ! このフィルムの封印の解き方は——」
おにぎりを手に大声で呼びかけるエリオット。
――フリーズ。
私だけではない。半径十メートルの買い物客全員がフリーズした。
振り返ると、エリオットが鮭おにぎりを片手に持ち、堂々とした姿勢で私を呼んでいた。
コンビニの真ん中で。
「加齢臭」と。
「ねえママ、かれいしゅうってなに?」
「しっ、見ちゃダメ!」
隣の親子連れの会話が刺さった。子供は純粋に疑問を口にしただけだ。でもその純粋さが致命傷になることがある。
奥の惣菜コーナーにいたおばさまが、憐れむような目でこちらを見ていた。「あらまあ、若いのに大変ねぇ」という視線だ。違う。加齢臭のことじゃない。いや加齢臭だけど加齢臭じゃない。名前なんです。名前。
説明しても余計ややこしくなるやつだ。
しかも本人は、店内の注目を「やはりこの世界でも私は目立つのか」くらいにしか思っていない顔をしている。違う。注目されてるのは私。加齢臭の人として。
私は醤油のボトルをカゴに投げ入れ、エリオットの腕を掴んで引きずった。
「会計する。今すぐ」
「しかし、まだこのフィルムの——」
「いいから!!」
なお、レジでエリオットがおにぎりのバーコードを店員さんに向けて「照合を頼む」と言い放った件については、記憶から消去することにした。店員さんの愛想笑いが、完全に強張っていた。
§ § §
帰宅。
玄関のドアを閉めた瞬間、私は振り返った。
「座って」
「何故——」
「座って」
有無を言わさぬトーンに、エリオットは素直にリビングの椅子に腰を下ろした。この男、キスに関わる話になると途端に従順になる。今回はキスの話ではないが、私の怒気を察したのだろう。前世で宮廷の権謀術数を生き抜いた男だ。怒った女には逆らうべきではない、ということはわかっているのだろう。
「いい? 今日のコンビニで何が起きたか、理解してる?」
「……私が君の名を呼んだだけだが」
「加齢臭って叫んだの!! コンビニの真ん中で!! 子供に復唱されたの!!」
「カレンシュは星の——」
「日本語では加齢臭なの!! 何回言ったらわかるの!!」
私は深呼吸した。怒鳴り散らしても解決しない。黒田相手に六年間学んだことの一つだ。感情的になった方が負ける。
「エリオット。お願いだから、外でも家でも、私のことは『奈々』って呼んで。お願い」
「…………」
エリオットは沈黙した。
いつもの頑固な即拒否ではなかった。何かを選ぼうとして、選べないでいる顔だ。
「……カレンシュ、という名には意味がある」
低い声で、エリオットが言った。
「星の瞬き。天蓋に散りばめられた光の中で、最も美しく、最も儚い一瞬の煌めき。——ハーゲン公爵閣下がその名を贈った夜、満天の星が祝福するように輝いていたと聞いている」
知っている。前世の記憶がある私には、わかっている。
父がその名を選んだ時、どれほどの愛情を込めていたか。異世界では名付けとは、子の魂に祝福を刻む神聖な儀式だ。星辰を読み、運命を占い、一音一音に祈りを込める。
カレンシュという名は、そうして生まれた。
「私にとって、君をその名で呼ぶことは——」
エリオットは一度口を閉じ、言葉を探すように視線を落とした。
「……祈りに近い」
ずるい。
そういうことを、そういう顔で、そういう声で言うのはずるい。
イケメンアレルギーの発症トリガーを的確に撃ち抜いてくる。
しかも本人に自覚がないのが、一番たちが悪い。口説き文句なら撃退できる。でも祈りは無理だ。祈っている人間を怒鳴りつけられる人間はいない。
でも、引くわけにはいかない。
「じゃあ話してあげる」
私は腕を組んだ。
「あんたに『奈々』って名前の由来を。この世界に来てからの私の話を少しだけね」
エリオットが首を傾げた。
「ナナ……。この世界の言葉では、何か意味があるのか」
「あるよ。まあ——意味って呼べるかは、微妙だけど」
私は久しぶりにその記憶を引っ張り出した。
あまり思い出したくない類の記憶を。
別に、隠していたわけじゃない。ただ、わざわざ人に話すような話でもなかった。話す相手も、いなかったし。
§ § §
リビングの椅子に座り直して、私は正面のエリオットを見た。
相変わらず顔がいい。真剣な表情をすると、美術館の彫刻が命を持ったような神々しさがある。イケメンアレルギーの私が彼と正面から向き合えるようになったのは、ひとえに彼の色々なポンコツ具合——電池を「小型魔力炉」と言い張る事件、ルンバとの友情——を知ってしまったからだ。
ポンコツを知ると人は強くなれるよね。
完璧な美貌は直視できなくても、「電池を魔力炉と言い張った男」の顔なら見られる。人体の不思議である。
「……私の名前、奈々って言うでしょ」
テーブルの上で自分の手を組みながら、私は切り出した。
「これ、実はちゃんと親がつけた名前じゃないんだ」
「……どういうことだ?」
「私が産まれてすぐに捨てられたの」
それを聞いた瞬間、エリオットの顔色が変わった。
予想もしていなかったというように。
その顔を、私は少しだけ意外な気持ちで見ていた。この男でも、こんな表情をするんだ。
「で、直ぐに施設に引き取られて、そこで『奈々』って名前を貰ったの。その年の七番目に来た子だったから、適当に『ナナ』って」
エリオットの瞳が、わずかに——しかしはっきりと見開かれた。
氷の奥で、何か硬いものが軋むように光った。
「……それが、君の名の由来だと?」
蒼い瞳が真剣に私を覗き込む。
その目の奥に、見たことのない何かが、灯っていた。
なんで、そんな顔をするの?
――その思いを押し殺し、私は口を開いた。




