8 疲労全回復ディナー
――溶けたよ?
肉が、口の中で。
噛む必要すらないほど柔らかい肉から、深い旨味が波のように押し寄せてくる。添えられたソースは甘すぎず酸っぱすぎず、肉の風味を何倍にも引き立てていた。
そして。
飲み込んだ瞬間、体の奥から温かいものがじわりと広がった。
朝から張り詰めていた肩の痛みが、嘘のように消えていく。
モニターの凝視で重くなっていた目が、澄んでいく。
胃の底に溜まっていた鈍い重さが、溶けるように抜けていく。
「なに、これ……」
もう一口。
温野菜のバターソテーを口に含む。
歯応えと甘味が完璧に同居した、ありえないほど美味しい野菜。噛むたびに、体の内側からチャージされていく感覚。
さらにもう一口。焼きたてのパンをちぎり、ソースに浸して、口に運ぶ。
「おいし……」
気づけば、手が止まらなくなっていた。
夢中で食べた。行儀も何もあったものではない。公爵令嬢の食事マナーを叩き込まれた前世の私がこの姿を見たら卒倒するだろう。
皿が空になった頃、私は自分の体の状態に驚いていた。
疲れが、一切ない。
十二時間以上働いた後だというのに、まるで丸一日しっかり休んだ後のように体が軽い。
なにこれ。栄養ドリンクのCMが裸足で逃げ出す効能だ。「効きすぎる」というのも、それはそれで怖い。
「……嘘でしょ」
「一口食べれば全回復する、と言ったはずだ」
エリオットは向かいの椅子に腰掛け、自分は食事を取ろうとしない。ただ、こちらが食べるのを間近で見つめていた。
「あんたは食べないの?」
「私は君のキスから得た魔力で充分だ。もっとも――」
一瞬、彼の氷の瞳がかすかに揺れた。
「君がこうして食べている姿を見ているだけで、私には充分すぎるほどの栄養になる」
「……気持ち悪いことを特上の声で言わないで」
思わず口を衝いて出た言葉に、エリオットは少し傷ついたような顔をした。
……いや、傷ついたようにも見えるし、「気持ち悪いと言われた」こと自体に困惑しているようにも見える。この男が前世の宮廷で言ったら、侍女が百人卒倒していたセリフだ。現代日本の限界OLには通用しないのである。
§ § §
……こんなの、反則だ。
今日一日、上司にどやされ、昼食も取れず、誰にも頼れなかった。
それがたった一食の魔法のディナーで全部消えて、こんな夢みたいなベッドで眠れるなんて。
あったかい。
あったかくて、気が抜けて。
ちょっとだけ、泣きそうになった。
「カレンシュ。――泣いている……ああ、眠ってしまったのか」
エリオットの声を遠くに聞きながら、私は意識を手放した。
§ § §
カーテンの向こうから、彼女の寝息が聞こえた。
私は静かに息を吐いた。
この世界に来てまだ半日しか経っていない。それでも、頭の中にはすでに膨大な情報が積み上がっている。
王政ではない。魔法も存在しない――来た瞬間から魔素の気配が欠片もなかったので、その点は早々に確認が取れた。しかし文明の水準は前世とは比較にならない。
あの板状の道具一枚で、王国の書記局を超える情報を処理できる。馬車の代わりに鉄の箱が地を走り、翼もない鉄塊が空を飛ぶ。嗜好品のコーヒーだけは、どういうわけかこの世界にも存在した。
そのすべてを、私は彼女を通して知った。
そして今日一日で最も理解したこと――彼女は、この世界では下層に属している。
貴族ではない。財も権力も持たない。あの狭い箱の中で、上位の者に怒鳴られても俯いて耐えるしかない立場だ。
呼称は違う。幼い頃に見ていた、職人の親方と弟子のような序列が、この世界にも形を変えて存在している。構造は同じだ。上に立つ者が下を踏みにじる、その理屈は世界が変わっても変わらない。
――私も、知っている。
かつて私は、名もない魔術師の家に生まれた。宮廷魔術師の座を掴むまでの道のりで、何人もの「上位者」に踏みにじられてきた。才覚があっても出自が低ければ透明な壁がある、ということを、骨身に染みて学んだ。
あの頃の私を救ったのは、魔法の才だけではない。「あなたの術式は美しい」と、出自を一度も問わずに言った人がいた。その筆頭が、彼女だった。
だから今日、彼女が昼食も取らずに板状の道具を叩き続ける姿を見ていたとき、胸の奥で燃えたのは同情ではなかった。
もっと生々しい、既視感だった。
今世でも、彼女は何も変わっていない。
かつて宮廷で、誰よりも聡明で、誰よりも献身的で、誰よりも多くのものを背負い込んでいた。それでも愚痴ひとつ言わず、誰かが見ていようといまいと、ただ黙って仕事をし続けた。
変わらず優しく、変わらず不器用で、変わらず自分を後回しにする。
暗い部屋の中で、私は己の掌をじっと見つめた。
悠久の時を越え、次元の壁を引き裂いた掌。
無数の傷痕が残るその手を、ゆっくりと握り締める。
この傷の一つ一つに、彼女を探した年月が刻まれている。だが、それを彼女に語る資格はない。語れば、恩着せがましい言い訳になる。
「今度こそ、護ってみせる」
今度こそ。
今度こそ――間違えない。
この手は、もう二度と彼女を傷つけるためには使わない。
この魔法は、ただ彼女を笑顔にするためだけに使う。
そう誓って、私は部屋の床に座り、目を閉じた。
足元で、るんすけが充電ドックに戻る音がした。今夜の警備は任せろ、ということらしい。頼もしい友だ。
窓の外では、あちらの世界と変わらない細い月が、静かに夜を照らしていた。
月だけは、同じなのだな。
四百年探し続けた星空とは違う空の下で、それでも月だけは、あの夜々と同じ顔で彼女の眠りを見下ろしている。
§ § §
月曜日の朝。
エリオットとの業務連絡キス(三秒きっかり。私はタイマーアプリで計測している。信用しているのではない、品質管理だ)を済ませ、いつも通り満員電車に押し込まれて出社した。
ちなみにエリオットは毎回、終了のアラームが鳴った後も〇・五秒ほど離れない。計測済みである。抗議すべきか迷ったが、指摘する方が恥ずかしいので黙っている。
通勤中、ぼんやりと昨夜のことを思い返す。
結界に守られた魔法風呂。温かいディナー。ルンバ――もとい、るんすけ(ルンバだよ? 自動掃除機)の励ましの電子音。ふかふかの天蓋付きベッド。
そう、驚いたことにうちのルンバ、明らかに自意識がある!!
エリオットがなにかしたのかな?
留守中に寂しくルンバに名前をつけて話しかけているうちに、ルンバに自我が宿ったとか?
――まさかね!?
いや、あの男のことだから「友が欲しい」という一念で本当に魂を宿らせかねない。笑えない。今度確認しよう。
でも、あの空間にいると、現実のストレスが異次元の彼方に吹っ飛ぶ。文字通り異次元だし。
だからこそ、毎朝この満員電車に詰め込まれた瞬間、落差で呼吸困難になる。
六畳一間の王宮スイートルームから、地獄行きの棺桶(丸ノ内線)への強制ワープだ。前の世界で一度だけ、エリオットの空間転移で移動したことがあったけど、あれより乗り心地が悪い。
ちなみに、空間転移は禁術に近い魔法だそうで、体験したのはその一度きり。その後エリオットはしばらく寝込んでたっけ。
§ § §
「如月ぃ」
出社して三十分。パソコンを立ち上げ、メールの未読数に絶望している最中に、その声が飛んできた。
うげ。ホント勘弁して! こいつは――。




