7 王宮スイートへようこそ
深夜零時。
泥のように疲れ果て、重い足取りで玄関のドアを開ける。
そこで私を待っていたのは、煌々と温かい光を放つ室内と、食欲をそそる完璧な料理の匂い。
そして。
「おかえりなさい、私の愛しい人」
銀色に輝く髪を揺らし、完璧な微笑みを浮かべる絶世の美男子と――なぜか彼の足元で、自慢げにピロリッと鳴いた一台のルンバだった。
「えっ!?」
彼らの後ろに広がる光景に思わず声を上げる。
そこは、私の部屋ではなかった。
いや、玄関は同じだ。靴を脱ぐスペースも、使い古された傘立ても変わっていない。
だがその先。
一歩踏み入れたその先に、見覚えのない空間が広がっていた。
まず、床。
昨日まで正体不明のシミが点在していたフローリングが、大理石調の美しいタイルに変わっている。足裏に伝わる感触が明らかに違う。――え、大理石!? うちの床、いつからホテルオークラになったの!?
次に、壁。
カビと画鋲の穴だらけだったベージュの壁紙が、温かみのあるアイボリーの漆喰に変わり、等間隔に淡い魔法の光――としか言いようのない小さな灯りが、まるで星座のように浮かんでいる。プラネタリウムの再現じゃないんだから! 演出が過剰すぎるのよ!!
天井は吹き抜けになっていた。
六畳一間の天井が、だ。物理法則を完全に無視して、上にブチ抜けている。見上げれば、そこに小さなシャンデリアが静かに光を照らしていた。――ちょっと、物理さん!? お仕事放棄しないで!! これ落ちてきたら確実に死ぬからねっ!
そして窓。窓の外には、見覚えのない星空が広がっていた。ここ、一階だよね? 隣のビルの壁しか見えなかったはずだよね!? どこの天体観測所と契約したのその窓!!
そして、部屋の中央。
かつてゴミ袋とペットボトルが積み上がっていた場所に、白いクロスがかかった小さなダイニングテーブルが置かれていた。
その上には、繊細な銀の燭台。揺れる炎が、部屋全体を柔らかい金色に染めている。……ディナー!? 燭台!? 事件現場の再現じゃないよねっ!?
テーブルの上にはさらに――蓋付きの銀のクロシュが二つ、ワイングラス、澄んだ水の入ったピッチャー。
「…………ええええええっ?」
立ち尽くす私の前に、エリオットが寄り添う。
彼はなぜか、白いシャツの上に、紺色のエプロンを着けていた。
昨日のボロボロのローブはどこへ消えたのか。いかにも「魔法で創造しました」と言わんばかりの完璧な仕立てのシャツにスラックスを身につけ、銀髪は後ろで一つに結ばれている。
さらにその足元には、すっかり拭き上げられてピカピカになったお掃除ロボットが、まるで彼の忠犬のように寄り添って控えていた。すっかり手懐けている。
というか、エプロンはどこから調達したの。まさかそれも魔法製? 国家機密級の魔力で錬成されたエプロン?
料理人の格好をした異世界最強の大魔法使いと、その相棒(家電)
顔が良すぎて、直視すると蕁麻疹が出る。
しかも知ってるんだからね、このコンビ。出会った夜、片方がもう片方に敗北して気絶してたんだよ。一晩で和解どころか主従関係を結ぶな。展開が早すぎる。
「おかえり、カレンシュ」
表情こそいつもの無表情に近いが、声にはかすかな自信のようなものがにじんでいた。
誰かに褒められるのを待つ子犬の目をしている。
……自覚はなさそうだが。
「ちょ、ちょっと待って。え? え? なにこれ」
私は靴を脱ぐのも忘れて部屋を見回した。
「空間拡張と環境改変の魔術だ。外見は元のまま、内部の空間座標だけを書き換えた。近隣住民に気づかれることはない」
「いやそういう問題じゃなくて!!」
叫びながら周囲を見る。
ベッド周りも変わっていた。あの万年床が消え、代わりに天蓋つきのベッドが鎮座している。白いレースのカーテンが優雅に垂れ下がり、マットレスには雲を詰め込んだとしか思えないふかふかの布団が積まれている。
「な、なんで天蓋つきベッド……!?」
「ハーゲン公爵邸の君の寝室を再現した。前世の君が慣れ親しんだ形式が、最もリラックスできると判断した」
「現代日本のOLに天蓋つきベッドはいらないの!!」
「……そうなのか?」
エリオットは微かに首を傾げた。本気で不思議そうだ。
この男の中の「現代日本のOL像」が、どんな資料で構築されているのか一度確認した方がいい。たぶん公爵邸の侍女から又聞きした「町娘の暮らし」くらいの解像度だ。
「それよりも」
彼は穏やかに――だが有無を言わさないトーンで、ダイニングテーブルの椅子を引いた。
「まず、食事を」
「え、いや、私そんな……コンビニおにぎりで……」
「君が最後に食事を摂ったのは、今朝出勤前に飲んだ缶コーヒーだろう。あれは食事ではない」
「……なんでそれ知って」
「千里眼だ」
「覗くなって言ったでしょ!?」
「護衛と言え。――座れ、カレンシュ」
彼の声は、前世の宮廷で公爵令嬢だった頃によく聞いた報告の場のような、静かな威厳を帯びていた。
前世の習慣なのか、体が自然と椅子に腰を下ろしてしまう。
……悔しい。体が彼の声を覚えている。六年間どんな上司の命令にも心を殺して従ってきたのとは、全然違う種類の従順さだった。
エリオットは慣れた手つきで銀のクロシュの蓋を持ち上げた。
蓋が開いた瞬間、湯気と一緒にとんでもない香りが広がった。
「……なにこれ」
皿の上にあったのは、見たこともない料理だった。
艶やかな飴色のソースに覆われた柔らかそうな肉。鮮やかなオレンジ色のピュレと、深い緑色の温野菜が彩りを添えている。
添えられたパンは焼きたてで、ほのかに湯気を立てている。
待って。焼きたてって何。うちにオーブンはない。ということは魔法で? パンを? 異世界の禁術クラスの魔力で?
「疲労全回復の極上ディナーだ。前世で君が宮廷晩餐会で好んでいた鹿肉のローストを現代風にアレンジし、さらに回復魔法の触媒を組み込んだ。一口食べれば肉体疲労、精神的ストレス、肩こり、眼精疲労がすべて消える」
「……そんな都合のいい料理が」
「ある。私が作った」
淡々と言い切る。
この男は、自分の魔法に関しては一切謙遜しない。
謙遜しないが、自慢げでもない。彼にとっては「雨が降る」と同じレベルの事実陳述なのだ。この絶対的な自信、前世から何一つ変わっていない。
半信半疑のまま、フォークで一切れ口に運ぶ。
「…………っ」
言葉が、消えた。
こ、これは――ッ!! 私は自分自身の感覚を疑った。
こんなことが……。




