55 キスの温度が変わった
どれくらいそうしていたか。
会議室の窓から、夕焼けが差し込んでいた。霞が関の空が、茜色に染まっている。
蛍光灯が消えた省庁の建物の中で、二つの影がしばらくの間、動かなかった。
「……帰ろう」
「うん」
「だし巻き、作る」
「あんた回復してないでしょ」
「魔法は使わない。手で作る」
「……じゃあ、三個ね」
「七個だ」
「増やすな」
立ち上がった。
エリオットの手を引いて、会議室を出た。
廊下には誰もいなかった。
静かな霞が関のビルの中を、二人で歩いた。
繋いだ手を、離さなかった。
§ § §
白峰さんの事件から一週間が経った。
日常が戻ってきた。
少し形を変えて。
まず、大きな変化。エリオットが魔法を自粛している。
空間拡張の結界が解除されたので、部屋は元の六畳一間に戻った。王宮スイートルーム仕様の広大なリビングがなくなり、二人で暮らすにはかなり狭い。
「せまっ」
「すまない。結界を維持する魔力がない」
「いやいい。元々こういう部屋だったんだよ。むしろ懐かしい」
六畳一間。万年床。台所は二人立つと身動きが取れない。風呂は追い焚き機能なし。
でも、なんとかなった。前の会社で六年間、この部屋で生きていたのだから。
夕食も変わった。魔法の全回復ディナーはなくなり、エリオットが手作りで作る普通のご飯。
……普通のご飯と言っても、あの男が本気で作ると素材の味を引き出す腕前は魔法並みなので、正直そこまで差がない。
「これ、鶏の唐揚げ。衣はまだちょっと分厚いけど、味は合格だと思う」
「おいしい」
「でしょ。二週間で百回揚げた」
「いつの間に」
食卓を囲みながら、六畳一間の床に座って、だし巻き卵をつつく。
ちゃぶ台が小さいから、向かい合うと膝が当たる。以前なら即座に引いていたのに、今日はなんとなくそのままにしてしまった。
「……奈々」
「ん?」
「口元に、衣がついている」
エリオットの指が伸びてきた。私の口元に触れる直前で、はたと止まる。
蒼い目が、一瞬だけ揺れた。まるで自分の行動に自分で驚いたかのように。
「……すまない。つい」
「え、いや、自分で取れるから!」
慌てて口元を拭う。でも、指の残像がまだ唇の近くに残っている気がして、顔がじわじわ熱くなる。
エリオットはもう何事もなかったかのように箸を動かしている。ポーカーフェイス。完璧な真顔。
でもよく見たら、耳の先がほんの少しだけ赤い。
(……あんたも動揺してるじゃん)
だし巻き卵に箸を伸ばしたら、同じタイミングでエリオットの箸と衝突した。カチッ、と小さな音。
「どうぞ」
「いや、あんたが先に」
「譲るべき理由がない。君が先にどうぞ」
「理由って……もういいからあんたが食べて!」
だし巻き卵一個で三往復する謎の攻防。六畳一間のちゃぶ台は狭い。距離が近い。
こっちの方が、いいかもしれない。
王宮の大テーブルより、ずっと。
§ § §
そして、もう一つの変化。
翌朝。
いつものルーティン。朝の魔力供給。
「……じゃあ、やりますか」
「うん」
エリオットがソファに座っている。私がその隣に座る。
向き合う。蒼い目と、黒い目。
これまでは、業務だった。
「消滅させないための事務的な魔法給油」。感情を排して、事務処理として、淡々とキスをしていた。
いや、正確には淡々と「やろうとしていた」。実際にはイケメンアレルギーのせいで毎回パニックになっていたけど。
だが今朝は、少し違った。
エリオットの顔を見つめた。
蒼い目。銀髪。完璧な顔の造形。氷のポーカーフェイス。
以前なら、この顔面を見た瞬間に動悸が加速し、胃がひっくり返り、「イケメン=裏切り=物理的脅威」のアラートが全力で鳴り響いていたはずだ。
でも今は。
(……うん、まだちょっとドキドキはする。でも、怖くはない)
怖くない。
この男は、私のために命を削っていた。助けに来ようとして血を吐いて倒れた。だし巻きを百回焼いた。
怖い男じゃない。
バカな男だ。
少し身を乗り出した。
エリオットが、かすかに息を呑んだ。いつもは自分から動くことはないのに、今日は私の方から距離を詰めている。
唇が触れた。
魔力が流れる。微かな光が、二人の間に瞬いた。
――いつもと、感覚が違った。
以前は「冷たい水が流れ出す」ような感触だった。自分の中の何かが吸い取られている、ちょっと不快な感覚。
でも今は、「温かい」。
胸の奥から何かが自然に流れ出して、相手に注がれていく。不快さがない。むしろ――
(……心地いい?)
びっくりして、離れた。
エリオットが、蒼い目を見開いていた。




