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前世で処刑された公爵令嬢、社畜OLに転生したら、処刑した魔法使いが専業主夫としてキスをせがんできます  作者: カクナノゾム


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55/66

55 キスの温度が変わった

 どれくらいそうしていたか。


 会議室の窓から、夕焼けが差し込んでいた。霞が関の空が、茜色に染まっている。

 蛍光灯が消えた省庁の建物の中で、二つの影がしばらくの間、動かなかった。


「……帰ろう」


「うん」


「だし巻き、作る」


「あんた回復してないでしょ」


「魔法は使わない。手で作る」


「……じゃあ、三個ね」


「七個だ」


「増やすな」


 立ち上がった。

 エリオットの手を引いて、会議室を出た。


 廊下には誰もいなかった。

 静かな霞が関のビルの中を、二人で歩いた。


 繋いだ手を、離さなかった。


 § § §


 白峰さんの事件から一週間が経った。


 日常が戻ってきた。

 少し形を変えて。


 まず、大きな変化。エリオットが魔法を自粛している。

 空間拡張の結界が解除されたので、部屋は元の六畳一間に戻った。王宮スイートルーム仕様の広大なリビングがなくなり、二人で暮らすにはかなり狭い。


「せまっ」


「すまない。結界を維持する魔力がない」


「いやいい。元々こういう部屋だったんだよ。むしろ懐かしい」


 六畳一間。万年床。台所は二人立つと身動きが取れない。風呂は追い焚き機能なし。

 でも、なんとかなった。前の会社で六年間、この部屋で生きていたのだから。


 夕食も変わった。魔法の全回復ディナーはなくなり、エリオットが手作りで作る普通のご飯。

 ……普通のご飯と言っても、あの男が本気で作ると素材の味を引き出す腕前は魔法並みなので、正直そこまで差がない。


「これ、鶏の唐揚げ。衣はまだちょっと分厚いけど、味は合格だと思う」


「おいしい」


「でしょ。二週間で百回揚げた」


「いつの間に」


 食卓を囲みながら、六畳一間の床に座って、だし巻き卵をつつく。

 ちゃぶ台が小さいから、向かい合うと膝が当たる。以前なら即座に引いていたのに、今日はなんとなくそのままにしてしまった。


「……奈々」


「ん?」


「口元に、衣がついている」


 エリオットの指が伸びてきた。私の口元に触れる直前で、はたと止まる。

 蒼い目が、一瞬だけ揺れた。まるで自分の行動に自分で驚いたかのように。


「……すまない。つい」


「え、いや、自分で取れるから!」


 慌てて口元を拭う。でも、指の残像がまだ唇の近くに残っている気がして、顔がじわじわ熱くなる。


 エリオットはもう何事もなかったかのように箸を動かしている。ポーカーフェイス。完璧な真顔。

 でもよく見たら、耳の先がほんの少しだけ赤い。


(……あんたも動揺してるじゃん)


 だし巻き卵に箸を伸ばしたら、同じタイミングでエリオットの箸と衝突した。カチッ、と小さな音。


「どうぞ」

「いや、あんたが先に」

「譲るべき理由がない。君が先にどうぞ」

「理由って……もういいからあんたが食べて!」


 だし巻き卵一個で三往復する謎の攻防。六畳一間のちゃぶ台は狭い。距離が近い。


 こっちの方が、いいかもしれない。

 王宮の大テーブルより、ずっと。


 § § §


 そして、もう一つの変化。


 翌朝。

 いつものルーティン。朝の魔力供給。


「……じゃあ、やりますか」


「うん」


 エリオットがソファに座っている。私がその隣に座る。

 向き合う。蒼い目と、黒い目。


 これまでは、業務だった。

 「消滅させないための事務的な魔法給油」。感情を排して、事務処理として、淡々とキスをしていた。

 いや、正確には淡々と「やろうとしていた」。実際にはイケメンアレルギーのせいで毎回パニックになっていたけど。


 だが今朝は、少し違った。


 エリオットの顔を見つめた。

 蒼い目。銀髪。完璧な顔の造形。氷のポーカーフェイス。


 以前なら、この顔面を見た瞬間に動悸が加速し、胃がひっくり返り、「イケメン=裏切り=物理的脅威」のアラートが全力で鳴り響いていたはずだ。


 でも今は。


(……うん、まだちょっとドキドキはする。でも、怖くはない)


 怖くない。

 この男は、私のために命を削っていた。助けに来ようとして血を吐いて倒れた。だし巻きを百回焼いた。


 怖い男じゃない。

 バカな男だ。


 少し身を乗り出した。

 エリオットが、かすかに息を呑んだ。いつもは自分から動くことはないのに、今日は私の方から距離を詰めている。


 唇が触れた。


 魔力が流れる。微かな光が、二人の間に瞬いた。


 ――いつもと、感覚が違った。


 以前は「冷たい水が流れ出す」ような感触だった。自分の中の何かが吸い取られている、ちょっと不快な感覚。

 でも今は、「温かい」。

 胸の奥から何かが自然に流れ出して、相手に注がれていく。不快さがない。むしろ――


(……心地いい?)


 びっくりして、離れた。


 エリオットが、蒼い目を見開いていた。

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