56 魂の受容
いつもの鉄壁のポーカーフェイスに、微かなひびが入っている。
「今の……魔力の流れが、変わった」
「え?」
「今まで無理やり引き出していた分が、自然に流れてきた。まるで……君の方から、差し出されたような」
私の頬が、かっと熱くなった。
「い、今のは事故! ただの生理現象!」
「生理現象でキスはしない」
「してるんだよこの世界では!」
立ち上がって、キッチンに逃げた。コップを取ろうとして棚にぶつけた。水を注ごうとして半分こぼした。手が震えている。でも、恐怖のせいじゃない。
(何今の。何今の何今の)
背後に、気配。
振り返ると、エリオットがキッチンの入口に立っていた。二人立つと身動きが取れない狭いキッチンの、入口いっぱいに。逃げ場がない。
「な、何」
「水をこぼしている」
「わかってるわよ!」
エリオットが、静かに一歩踏み込んだ。キッチンが一気に狭くなる。彼の体温が、背中越しに感じられるほどの距離。
手を伸ばして、私の手からコップを取った。布巾でカウンターを拭き、コップに水を注ぎ直し、私の手に戻す。
その一連の動作が、やけに丁寧だった。
「……飲め。落ち着く」
「あ、ありがと……」
水を飲んだ。冷たい。手はまだ震えている。エリオットはその手をじっと見つめてから、何か言いかけて、やめた。
代わりに、一言だけ。
「いつもより、美味しかった」
「は? 水が?」
「キスが」
真顔で爆弾を落として、エリオットはキッチンから出ていった。
(死ぬ。心臓が止まって死ぬ)
心臓が暴れている。
でも、これはイケメンアレルギーの動悸じゃない。もっと違う、もっと柔らかい、もっと甘い振動。
(まさか)
§ § §
夜。問題が発生した。
「ソファは?」
「空間拡張の結界と共に消滅した。あのソファは魔法で生成したものだ」
「…………」
つまり。六畳一間に、布団が一組。以上。
「あんた、床で寝て」
「構わない。床の冷たさなど、亜空間に比べれば温泉のようなものだ」
さらっと重い過去を混ぜないでほしい。罪悪感が湧くじゃないか。
「……わかった。布団、半分貸す。ただし、一ミリでもこっちに寄ったら殺す」
「一ミリは物理的に不可能だが、善処する」
布団を敷いた。シングルの布団に、二人。
背中合わせで横になる。六畳一間の蛍光灯を消すと、窓の外の街灯がうっすらと部屋を照らした。
背中が、触れている。
エリオットの体温は、以前より少し温かかった。魔力が安定してきているのかもしれない。
心臓がうるさい。絶対に聞こえている。背中越しに伝わっている。
「……奈々」
「寝て」
「ああ。おやすみ」
「……おやすみ」
眠れるわけがなかった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
§ § §
その日から、朝のキスが変わった。
以前は、目覚まし時計のスヌーズを止めるような義務感で行っていた。
「はい魔力供給の時間です」「はいどうぞ」「はい終わり」。五秒の業務。感情はゼロ。
でも、今はちょっとだけ違う。
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、だ。
「……行くよ」
「うん」
向き合う。近づく。
エリオットの蒼い目を見る。
ポーカーフェイスの向こう側に、微かな緊張が見える。この男、何百年生きてても、こういう場面では初心なのだ。
(バカだなあ)
唇が触れた。
今日も、温かい。
魔力が流れる。自然に、スムーズに。以前のような「引き出される」感覚がない。自分の方から差し出している。
離れた後、頬が熱い。
でも、以前のように強烈な動悸や拒絶反応が出ない。
「……エリオット」
「何だ」
「これ、前と感覚が違うんだけど」
「うん。魔力の接続効率が、以前の三倍ほどになっている。君の魔力が自発的に流れてくるようになったからだ」
「なんで?」
「……わからない。推測だが、君の中の魔力タンクが、私との接続を『拒絶』ではなく『受容』し始めた可能性がある」
「なにそれ」
「つまり。君の魂が、私を……」
エリオットの言葉が、途中で止まった。
止めたのではなく、言えなかったのだ。蒼い目が泳いでいる。ポーカーフェイスが微かにひび割れている。
「なに? 私の魂が何?」
「……何でもない」
「おいこら」
私は身を乗り出した。エリオットが「何でもない」で逃げると思ったら大間違いだ。六年間のブラック企業で鍛えた「核心を吐かせる」技術を舐めるな。
「私の魂が、あんたを、何?」




