54 今の君はあの頃より強い
前世で私を告発した聖女は、あの時も泣いていた。
「お姉様のためなのに」と。
「お姉様を救いたかっただけなのに」と。
今日の白峰さんも、同じ言葉を、同じ顔で泣いていた。
「今回こそ私があなたを助けてあげるはずだったのに」と。
何も変わっていない。四百年経っても、聖女の涙の味は同じだ。
自分の歪んだ愛を「救済」と呼び、拒絶されると「裏切り」と泣く。あの構造は、時代が変わっても、世界が変わっても、何一つ変わらなかった。
……でも。
変わったのは、私の方だ。
前世の私は、あの涙に胸を痛めた。処刑台の上で、最後まで聖女を憎めなかった。
今の私は、涙の裏にある構造を、正確に見抜ける。同情はする。でも、もう騙されない。
§ § §
でも、その「やり遂げた」の裏側に張り詰めていた緊張の糸が、今、全部切れた。
会議室の床は冷たかった。リノリウムの感触が、頬に直接伝わっている。いつの間にか、横になっていた。起き上がる力がない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
限界OL、勝利の後は床で寝転がる。かっこよくない。死ぬほどかっこよくない。
さっきまで三カ国語で啖呵を切ってた女が、今は会議室の床で胎児みたいに丸まっている。
前世では、この瞬間すら許されなかった。
処刑台から泣き崩れる暇もなく、刃が落ちた。恐怖も、安堵も、後悔も、何一つ味わい切る前に、全てが終わった。
今は、違う。
崩れることが、許されている。
この冷たい床に、好きなだけ倒れていられる。泣きたいだけ泣ける。震えたいだけ震えられる。
それだけで、前世よりずっと恵まれている。
(……いいや。もう少しだけ、このままで)
目を閉じた。
§ § §
どれくらいそうしていたか、わからない。
空気が、変わった。
会議室の中に、どこからか風が吹いた。窓は閉まっているのに、ふわりと空気が動いた。
蒼い光が、一瞬だけ瞼の裏に映った。
目を開けた。
エリオットが、立っていた。
エリオットは、まだ顔色が悪かった。
シャツは新しいものに着替えているが、瞳の光はいつもより弱い。本来なら寝ていなければならない身体。
空間転移で来たのだろう。白峰さんが連行されたことで「神の呪詛空間」が消え、移動が可能になったのだ。
「……来ちゃだめだって言ったのに」
床に座り込んだまま、かすれた声で言った。
「千里眼で見ていた。全部見た。だから来た」
「あんた、まだ回復してないでしょ」
「回復は後でいい」
エリオットが、ゆっくりと膝をついた。
私の目の前で。蒼い目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「よく戦った、私だけの令嬢」
声が、震えていた。
あの鉄壁のポーカーフェイスの男の声が、はっきりと震えていた。
「やめてよ……そういうこと言うの……」
「言わせてくれ。一度だけ」
エリオットの手が伸びた。
私の手を握った。冷たい手。大魔法使いの手は、いつだって冷たい。
でも今は、その冷たさが心地よかった。
「あの宮廷で、私は守れなかった。処刑台の前で、何もできなかった。永い間ずっと、その後悔を抱えていた」
声が途切れそうになる。神の呪縛が喉を焼いているのだ。真相を語ろうとするたびに、激痛が走る。
でも今、白峰さんが捕まったことで、呪縛が少しだけ弱まっている。完全には解けていないが、言葉の端は漏れるようになった。
「でも今日、君は自分の力で立っていた。あの会議室で、あの時の君より遥かに強く」
「前世の私が弱かっただけだよ」
「違う。リスクの高い手段だけを避けて戦った前世の君と、どんなに泥臭くても現代の手段で戦い抜いた今の君は、同じ人間で……同じくらい、いや……」
エリオットの蒼い目が、初めて潤んだ。
「今の君は、あの頃より強い。ずっと強い」
私の目から、また涙が溢れた。
今度は、悔しい涙でも悲しい涙でもなかった。
自分でもよくわからない涙。ずっと欲しかった言葉をようやくもらった時に出る、名前のない涙。
「……ちゃんと自分でやれた」
笑った。泣きながら。
「ちゃんと、自分の力でやれたよ。あんたの魔法なしで」
エリオットが何も言わずに、両腕を広げた。
私はためらった。一瞬だけ。
イケメンアレルギーが、微かに頭を掠めた。
(でも、今日くらい、いいか)
身体を預けた。
エリオットの胸に、頭をつけた。
冷たくて、固くて、でもどこか安心する体温。
大魔法使いの腕が、ゆっくりと私の背中に回された。
二人の間で、何かが変わった。
これは、もう「イケメンへの恐怖と妥協の産物」ではなかった。




