53 万雷の拍手
公安の男が、白峰さんの両肩を静かに押さえた。
「白峰サヤカさん。機密情報の不正流出の容疑で、お話を伺います。ご同行ください」
白峰さんは立ち上がった。涙を拭おうともしなかった。
公安の男に促されて、ドアに向かう。
最後に一度だけ、振り返った。
私を見た。
何か言おうとした。だが、言葉は出なかった。
代わりに、ほんの少しだけ、唇が動いた。
読唇術を知っている者なら読めたかもしれない。
「ごめんなさい、お姉様」
ドアが閉まった。
§ § §
白峰さんが去った会議室で、静寂が数秒間続いた。
それから、拍手が起きた。
最初は誰か一人。パチ、パチと。
朝倉座長だった。穏やかに、しかし確信を持って手を叩いている。
それに続いて、山本さん。佐々木さん。鈴木さん。
経産省のエリート。外務省の担当者。コンサル。シンクタンク。
席を立ったあの三カ国の政府高官までもが、拍手をしていた。
万雷の拍手が、会議室を満たした。
私は、その場に立ったまま、両手を握りしめていた。
膝が笑っている。心臓が壊れそうに速い。視界がぼやけている。
でも、立っている。
処刑台でも折れなかった令嬢の魂が、限界OLの身体を支えている。
(やった……勝った……)
朝倉座長が歩み寄り、手を差し出した。
「如月さん。見事でした。完全な潔白です」
その手を握り返した。
まだ、震えている。
§ § §
会議室に、人気がなくなった。
拍手が止み、公安が去り、メンバーが三々五々退室していく中、朝倉座長が「今日はもうお帰りなさい」と穏やかに言ってくれた。
山本さんと佐々木さんと鈴木さんが「お疲れ様でした」と頭を下げてくれた。
全員が出ていった。
ドアが閉まった瞬間、私の膝が砕けた。
ガクン、と。
まるで電源が切れたように、全身の力が抜けた。
会議テーブルの端にしがみつこうとしたが、指が滑り、そのまま床にへたり込んだ。
「あ、は……」
声が出ない。呼吸の仕方を忘れたみたいだ。
肺が動いているのに、酸素が足りない気がする。
膝が笑っている。
いや、笑っているんじゃない。痙攣している。太ももの筋肉が、勝手にぴくぴく動いている。
手も震えている。
握りしめようとしても止まらない。時計が震えて文字盤が読めない。
(勝った。勝ったんだ。完全に勝った。証拠を突きつけて、白峰さんは連行されて、拍手喝采をもらった。完全勝利をした、はず)
なのに、涙が止まらなかった。
嬉し泣きではない。
安堵の涙でもない。
怖かったのだ。ずっと、ずっと怖かった。
§ § §
公安に連行されかけた時。
前世の処刑場がフラッシュバックした。
あの日と同じだった。衛兵に両腕を掴まれ、長い廊下を歩かされた。
振り返っても、誰もいなかった。
カレンシュ・ハーゲンの味方は、最後の日には一人もいなくなっていた。法廷に立った証人は全員、聖女フィオの側だった。「令嬢が背信を犯した」と口を揃えて証言し、私の潔白を主張する者は、どこにもいなかった。
今回は、違った。
山本さんがICカードログを引き出してくれた。佐々木さんがDNSの伝播履歴を三日間かけて分析してくれた。鈴木さんが不正アクセス禁止法の構成要件を一条ずつ精査してくれた。
一人ずつ名前を持った人間が、私のために動いてくれた。
弁当を作って、一緒に食べて、魅了を解いて、正気に戻して。あの一週間の投資が、今日、全部返ってきた。
前世では、誰一人として味方がいなかった。
今生では、三人もいた。たった三人。でも、それで十分だった。
§ § §
あの日、処刑台の上で、何か言おうと口を開いた。
最後に一言だけ。無実を。あるいは、せめて別れの言葉を。
でも、声は群衆の罵声にかき消された。
石が飛んできた。腐った果物が飛んできた。聖女の信者たちの絶叫が、私の最後の言葉を永遠に奪った。
カレンシュ・ハーゲンは、何も言い残せずに死んだ。
今日、私は三つの言語で宣言した。
英語で。インドネシア語で。タイ語で。
「私は何も奪っていない」と。
そして三十人が、静まり返って聞いていた。
一人も石を投げなかった。一人も罵声を浴びせなかった。
全員が、私の言葉を、最後まで聞いてくれた。




