52 自滅した罠
白峰さんの唇が、わなわなと震え始めた。
「そ、それは……お、お手洗いに……」
「一時間もですか? しかも、お手洗いの方向のICカードゲートを通過した記録はありません。あなたはプロジェクトルームの中にずっといた」
白峰さんの反論が、完全に詰まった。
「白峰さん。あなたが仕掛けた最初の罠たちは、もっと巧妙だった。でも、この最終手段はあまりにも杜撰すぎる」
そう、前世で彼女が仕掛けた罠に比べて、あまりにも杜撰すぎる。
私は、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「実家の私設ドメインを使い、ご丁寧に自分のPCをスリープ状態にしたまま私の席で作業をする。少し調べればすぐに足がつくことくらい、あなたなら分かっていたはずよ」
白峰さんの肩が、びくりと跳ねた。
「あなたは焦っていたのよ。私があなたの罠を次々と自力で解除していくから。計画通りに私をどん底に落とせない焦りと執着が、あなたの冷静な判断力を奪ったんだわ」
それが恐らく、この杜撰な罠を仕掛けた理由だろう。
私は、静かに、しかし確実に、白峰さんの罠の構造を解体していった。前世の経験で構築された、一点の隙もない論理の城を積み上げながら。
§ § §
追い詰められた白峰さんの顔が、変わった。
ゆるふわの笑顔が、剥がれ落ちた。
代わりに現れたのは、前世の聖女の顔だった。
「……どうしてよ」
声が変わった。甘い語尾伸ばしが消え、低い、震える声。
「どうしてよ、お姉様……」
会議室がざわめいた。「お姉様」という呼び方に、全員が困惑している。
白峰さんは立ち上がった。椅子が倒れた。
「今回こそ私があなたを助けてあげるはずだったのに!」
叫んでいた。
公安の男が身構える。朝倉座長が「白峰さん!」と呼びかける。
だが白峰さんは聞こえていなかった。
「いつも、いつもそう! あなたは何でも一人でできて、何でも一人で解決して、私のことなんかいらない! いつも私から全てを奪って!」
涙が溢れていた。
ゆるふわ後輩の殻が完全に砕け、剥き出しになった感情が会議室に叩きつけられている。
「私があなたをどん底に落として、ボロボロにして、もう立てなくなった時に、そっと手を差し伸べて『私がいるから大丈夫よ』って言えばよかったのに……あなたは全部自分でひっくり返して、また私に何も残してくれなかった……!」
会議室の全員が、呆然と白峰さんを見つめていた。
この錯乱。この叫び。国家機密流出の犯人が、被害者に向かって「なぜ私に救済される側でいてくれなかったのか」と泣き叫んでいる。
そして、白峰さんの口から、もう一言。
極限の錯乱の中で、誰にも理解できない言葉が漏れた。
「何度やり直したって、あなたは……!」
白峰さん自身が「何度」と言った瞬間、自分でも驚いた顔をした。
彼女の認識では、これは「一度目のやり直し」のはずだった。前世と今生、二回だけ。
なのに、口が勝手に「何度」と言った。
一瞬だけ、白峰さんの瞳が虚ろに揺れた。
まるで別の時間の記憶が、一瞬だけ混ざり込んだように。
だが、それは誰にも気づかれなかった。
§ § §
会議室が、白峰さんの絶叫の余韻で震えていた。
私は、その場に立ったまま、微動だにせずにいた。
白峰さんが涙と怒りと絶望で崩れ落ちかけている。会議室の全員が状況を飲み込めずにいる。公安の男たちが白峰さんに向かって動き始めている。
その中で、私だけが静かだった。
見つめていた。かつて「妹」と呼んだ女の、剥き出しの姿を。
「白峰さん」
私の声が、会議室に響いた。
低く、落ち着いた声。だが、その奥に鋼の芯が通っている。
全員の動きが、止まった。
私はゆっくりと、三つの言語を混ぜた。
「I didn't take anything from you.」
「Saya tidak pernah mengambil apapun dari Anda.」
「ฉันไม่เคยแย่งอะไรจากคุณเลย」
英語。インドネシア語。タイ語。
三カ国語で、同じ言葉を。
そして最後に、日本語で。
「私は何も奪っていない。あなたが勝手に奪おうとして、自滅しただけよ」
白峰さんの目が、大きく見開かれた。
涙で赤くなった瞳に、私の姿が映っていた。
限界OLの姿と、前世の令嬢の姿が、二重写しになっている。
あの頃と同じだ。どんなに追い詰めても、カレンシュは毅然としていた。処刑台でもそうだった。
そして今も。
「白峰さん。あなたがしたことは犯罪です。国家機密を流出させ、私に罪を着せようとした。それは絶対に許されない」
私の声が、かすかに震えた。
そう、そして口には出さないが思ったことがある。
(あなたは神の力に頼りすぎて、人間の作る『データ』の痕跡を甘く見ていた。そして何より、私に縋ってほしいという身勝手な想いに囚われて、自滅したのよ)
私は、言葉を続けた。
「でも。あなたが前の会社で黒田を告発してくれたこと、あれは嘘じゃなかったと思ってる。あの涙は本物だった」
白峰さんの唇が、わなわなと震えた。
「あなたは私を壊して救いたかった。でも、本当は最初から、壊さなくても隣にいてよかったんだよ。フィオ」
最後の一言は、小さな声だった。周囲には聞こえなかったかもしれない。
でも白峰さんには、はっきりと聞こえた。
白峰さんの膝が、ゆっくりと折れた。
今度は泣き叫ばなかった。
ただ静かに、崩れ落ちた。




