50 公爵令嬢の覚醒
そして木曜日。
関係省庁のトップや海外要人も顔を揃える、厳戒態勢の緊急国際会議の場に、私は立つことになった。
公安から拘束を解かれ、「自らの潔白を証明する機会」として弁明の場が設けられた。朝倉座長が昨夜の約束通り、その席を用意してくれていた。
会議室のドアの前で、深呼吸した。
今日は、エリオットの弁当はない。彼はまだ寝ている。
スマホを見た。メッセージが一件。
『見ている。千里眼だけは維持している。……行ってこい、奈々』
初めて、「行ってらっしゃい」ではなく「行ってこい」だった。
対等に、送り出す言葉。
私は、スマホをポケットにしまった。
「うんっ!」
気合をいれてドアを開ける。
§ § §
会議室に入った瞬間、私の中で何かが共鳴した。
なんだろ?
暖かく冷たい、懐かしい忌まわしい記憶。
胸の奥で、眠っていた極大のエネルギーが、静かに脈動し始める予感。
前世の令嬢の魂。処刑台でも折れなかった、あの毅然とした光。
それが、今の私の中で、燃え上がった。
§ § §
会議室にいた全員が、入ってきた女を見た。
限界OLの疲れた顔。肩まで伸びた手入れの行き届いていない黒髪。くたびれたスーツ。
だが、何かがおかしかった。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
女の輪郭が、ブレた。
黒髪がきらりと金色に反射した。疲れた瞳が、一瞬だけ碧く光った。くたびれたスーツの上に、絹のドレスの幻影が重なった。
威圧感による幻覚――そう解釈した者がほとんどだった。
だが、会議室の空気が変わったことは、全員が感じ取った。
この女は、ただ者ではない。
その女は、かつてのように席に向かって歩き始めた。
§ § §
今度は……負けない。
そう心に誓いながら、証言台に立つ。
正確に言うと、単純に私の席なのだが、まぁ気分的に。
会議室には三十人以上がいた。関係省庁のトップ、海外要人のオンライン画面、プロジェクトメンバー、そして公安。全員が私を見ている。
朝倉座長が口を開いた。
「如月さん。あなたに弁明の機会を設けました。証拠があるなら、ここで提示してください」
「ありがとうございます、座長」
私は深呼吸して、プレゼン画面を開いた。
「まず、アクセスログについて。不正送信が行われた月曜日の午後三時十七分、私は七階の印刷室にいました。印刷室の入退室ICカードログと、廊下の監視カメラ映像がそれを証明します」
山本さんが準備してくれたデータが、スクリーンに映し出された。
時刻の照合。印刷室への入室記録は午後三時五分。退室は三時四十二分。不正送信の時刻と完全に重複している。
「次に、ICカードの入退室ログです。不正送信が行われた時間帯にプロジェクトルームに在室していた人物のリストです」
画面が切り替わった。
在室者リスト。十三人の名前。その中に、「白峰サヤカ」の名前があった。
会議室がざわめいた。
「これだけでは白峰さんが犯人だという証拠にはなりません。他に十二人の在室者がいます。ですが、次の証拠をご覧ください」
画面が再び切り替わった。佐々木さんが分析してくれたデータ。
「不正送信の宛先IPアドレスを逆引きすると、海外のレンタルサーバーに行き着きます。そのサーバーに紐づいているドメインの登録日は、不正送信のわずか五日前です。つまり、このダミー企業は犯行のために急造されたものです」
公安の男が身を乗り出した。
「そのドメイン登録者の情報は?」
「Whoisプロテクトがかかっていますが、佐々木さん――経産省の佐々木さんがDNSの伝播履歴から、登録に使用されたメールサーバーを特定しました」
画面に表示されたメールサーバーのドメイン。それは、ある名家の私設IT部門が管理するメールシステムだった。
会議室が、静まり返った。
§ § §
千里眼の映像が、突然、歪んだ。
(……何だ、これは)
奈々の身体から、魔力が溢れ出している。
この世界には存在しないはずの、純粋な魔素の奔流。それが、彼女の怒りに呼応するかのように、目に見えない波紋となって会議室に広がっていく。
私は起き上がろうとして、できなかった。身体はまだ動かない。
だが、千里眼だけは、はっきりと見えている。
蛍光灯が、ちらついた。
最初の変化は、髪だった。
奈々の黒髪が、毛先から淡い光を帯び始める。一筋、また一筋と、黒が金へと書き換えられていく。漆黒の髪が、燦然たる金色に染まっていく。
(――カレンシュ)
次に、瞳。
疲れを湛えた焦茶の瞳が、深い深い碧玉の青に変わった。宝石を溶かしたような、底知れぬ蒼。かつてハーゲン家の長女だけが持っていた、あの瞳だ。
そして――衣装が、変わった。
くたびれたスーツの輪郭が揺らめき、絹の光沢が走る。肩から流れ落ちるように紺碧のドレスが現れた。胸元には金糸の刺繍が精緻な紋様を描き、腰を締めるコルセットには、ハーゲン家の紋章――交差する双剣と薔薇――が浮かび上がっていた。
息を、呑んだ。
四百年前に失った人の姿が、そこにあった。
「あ……ああ……っ!」
もう二度と見ることは叶わないと思っていたあの姿。
あの日、処刑台の上で最後に見た凛然たる令嬢の立ち姿が、蛍光灯の無機質な光の下に、完璧に再現されていた。
(……生きている。戦っている)
私はソファの上で、震える手を握りしめた。
あの夜、血まみれのキスで奈々が私に魔力を注いだ。
その時、私の術式の一部が、彼女に移ったのかもしれない。四百年間、私の魂に刻み込まれてきた魔法の記憶が、あの接触を通じて彼女の中に宿った。
そして今、極限の感情の高まりの中で、それが目覚めた。
(……こんな、ことが……)
私はソファの上で、ただ呆然と、震える手を握りしめた。
滂沱と流れる涙が頬を濡らしたが、それには気づきもしないで。
§ § §
周りがざわめいていました。
でも、わたくしには声が聞こえませんでした。
音が、消えていました。
お姉様の髪が、金色に変わっていきます。
瞳が、碧玉の青に変わっていきます。
くたびれたスーツの上に、絹のドレスが重なっていきます。
(ちがう)
膝が、震えていました。手が、震えていました。
(ちがう、ちがう、ちがう)
これは計画にない。これは想定していない。お姉様は今、無力なはずです。追い詰められた限界OLのはずです。わたくしが手を差し伸べるのを待っているはずです。
なのに。
なのに、なぜ。
「――なっ」
公安の男が、椅子から半ば腰を浮かせています。座長のペンがカタンと机に落ちました。
「あの人、さっきまで黒髪じゃ……」
「ドレス? なんでドレスを……」
「Apa yang terjadi!?」
(何が起きているんだ!)
インドネシアの高官が立ち上がりました。
「อะไรกัน……เธอ เปลี่ยนไป……!」
(なんだ……彼女が変わった……!)
§ § §
タイの高官が、震える声で呟いた。「彼女が……変わった」隣に座る通訳はもう訳すことを忘れ、ただ目の前の光景に釘付けになっていた。
白峰だけが、違った。
彼女の顔には驚愕ではなく、恐怖があった。
見覚えのある恐怖。処刑台の前で、群衆の中から見上げた、あの顔。
剥き出しの感情が、一言に凝縮された。
「嘘……お姉、様……?」
金色の髪が、蛍光灯の光を受けて静かに揺れた。
碧玉の瞳が、真っ直ぐに白峰を射抜いている。
会議室の三十人は、誰一人として動けなかった。
これは、夢か、幻か。
ただ、目の前に立つ存在が、一介のOLではないことだけが、本能で理解させられていた。




