5 千里眼の監視者
「ああ、君に最大限の感謝と愛情を。カレンシュ……」
私が言葉を唇に乗せると、何故かカレンシュは柳眉を釣り上げた。
ああ、怒った顔も愛らしい。
「奈々!! 如月奈々!! 加齢臭って言うなっ!! もう、本当にデリカシーゼロのバカ魔法使いッ!!!」
何やら光って記号を表示している魔法器具を確認するなり、「遅刻」という呪文を叫びながら、彼女は嵐のように身支度を始めた。この世界では、決まった刻限に執務の場へ向かわねばならないらしい。
「行ってらっしゃい、カレンシュ」
「……奈々だからね、名前ッ!!」
怒りの表情を残して、扉が閉まった。
§ § §
ウィィィィン……。
部屋の隅にある充電器から、昨夜私と対峙したあの円盤状のゴーレムが起動音を立てて滑り出してきた。
「……始まったか」
瞑想状態のまま、薄く目を開ける。
ゴミを吸い込んでは壁にぶつかり、律儀に方向転換してまたゴミを吸う。この献身には感銘を受ける。魔力もなく、術式もなく、ただひたすらに主のために働き続けるとは。
「お前もまた、彼女のために力を尽くして、この部屋を浄化し続けているのだな。文句一つ言わずに……」
そっと手を伸ばし、その丸い背中を労うように撫でた。
「私の気持ちがわかってくれるのは、この世界で、お前だけかもしれないな……。よし、今日からお前を『るんすけ』と名付けよう。彼女はお前をルンバと呼んでいた。スケというのは彼の国で星の脇で輝く伴星のことだ。故にお前の名前はるんすけ。どうだ、良い名前だと思わないか?」
すると――。
ピロリッ。
いつもとは違う、短いがどこか温かみのある音が鳴った。
るんすけは私の指先に向かって、まるですり寄るように車輪を小刻みに動かした。
(……こいつ、わかっているのか?)
私の魔力を至近距離で浴び続けた結果、このゴーレムのコアに何らかの変化が生じているのかもしれない。興味深い。
「そうか。お前も、そう思うか」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。言葉の通じない異世界で、初めて心が通じ合った気がした。
「それにしても……なぜ彼女は、私が『カレンシュ』と呼ぶのを嫌がるのだ。カレンシュは星の瞬きを意味する、あんなにも美しい名なのに。……るんすけなら、この切ない気持ちがわかるだろう?」
ピロリッ。
「おお……」
知性ある反応。やはりこのゴーレムには魂の萌芽がある。ならば礼節をもって接するべきだろう。この世界で最初にできた、私の友だ。
それにしても、この居室は興味深い。
壁の管をひねるだけで清浄な水が出る。火も魔石もないのに、あの白い箱の中は常に冷えている。この世界の人間は、魔法なしでここまでの文明を築いたのか。
……だが、これほどの文明を持ちながら、彼女はなぜあんなに疲弊している。
道具がどれだけ進歩しても、人を使い潰す人間は進歩しない、ということか。どの世界も、それだけは変わらないらしい。
それにしても彼女は今どうしているのだろうか。
私は千里眼の魔術を展開した。
魔素のない世界でも、朝の誓いで得た魔力の一筋を使えば、対象の居場所を映し出すことができる。
彼女が向かった執務の場の様子を、確認しておきたかった。
映像が結ばれた。
整然と並ぶ机。光を放つ板状の魔道具。行き交う人々。カレンシュは小さな机の前に座り、膨大な書類と向き合っていた。
カレンシュの席に、上位の者と思われる男が近づいた。
書類の束を机に叩きつける。カレンシュが答える。男がまた何かを言う。カレンシュが頷く。
男は去り際に、何かを吐き捨てた。
……何故だ。カレンシュは何も間違っていなかった。
私には文字の細部まで読み取れないが、書類の内容からすれば、明らかに彼女の作業は完遂されていた。にもかかわらずあの男は、全てを白紙に戻した。
指先が、勝手に印を結びかけていた。
ここからでも、あの男の椅子の脚を凍らせるくらいはできる。転んで腰でも打てばいい。いや、いっそ廊下で――。
……やめろ。私にその資格はない。彼女を傷つけた者に裁きを下す資格など、彼女を誰より深く傷つけた私には、ない。
(理不尽な主君か。あるいは――)
宮廷でも似たような男を知っている。己の気分で部下の仕事を壊す種の人間だ。
だとすれば、カレンシュはこの執務の場で、毎日この種の攻撃を受けている。
千里眼の焦点を少し引く。
フロアを見渡すと、周囲の者たちは誰も何も言わなかった。目を伏せ、己の板状の魔道具に視線を落としていた。
一人だけ、小さく何か囁いた者がいたが、すぐに視線を逸らした。
カレンシュは昼食も取らなかった。
この世界でも食事の刻限はあるようだが、彼女の手は止まらなかった。板状の魔道具を叩き続けていた。
口元が一瞬動いた。何かを呟いた。声は拾えなかった。
前世の宮廷で、私は多くの理不尽を見てきた。
しかしあの頃のカレンシュは、どんな圧力に対しても毅然と顔を上げていた。
今の彼女は、顔を上げることすら、していない。
拳を握り締める。掌に爪が食い込み、血が滲んだ。痛みは感じない。あの光景に比べれば、どんな痛みも痛みではなかった。
(……これが、彼女の日常か)
胸の奥で何かが燃えた。
そして次の瞬間、その炎の熱を押しつぶすように、別の何かが私の内側に割り込んできた。
――あの日、私が彼女を処刑台に立たせた理由を、思おうとした瞬間だった。
灼熱が、喉を塞いだ。声帯ではない。思考そのものが、焼き切られるような感覚。神の封印。口に出すことも、文字にすることも、脳裏で像を結ぶことすら――許されない。
あの日の真相は、私の内側に完全に閉じ込められている。
試したことなら、何百回とある。羊皮紙に書こうとして腕が止まり、夢の中でさえ言葉は灰になった。神の封印は完璧だ。完璧で、残酷だ。
彼女は私を裏切り者と思ったまま、生まれ変わった。それを正す術を、私は永遠に持たない。
歯を食いしばった。
言えない。謝れない。説明することも、できない。
だから私にできることは、たった一つだ。
彼女が執務から帰ってくる夜を、せめて――最高のものにする。
魔力をやりくりしながら、今夜どう彼女を癒すかを頭の中で組み立て始めた。
料理、湯、寝具。この世界の彼女が何に疲れ、何で安らぐのか。観察した情報を組み合わせ、最適解を導く。
宮廷で国家戦略を立案していた頭脳の、現在の全投入先である。後悔はない。むしろ生涯で最も有意義な使い道だと思っている。
――ピンポーン。
不意に、部屋の静寂を切り裂く高音が鳴り響いた。
これは一体何の音だ?
扉の外に人の気配がある。
恐らく、今の音は来客を告げる呼び鈴。
ならば、外にいる者は――。




